17〜19世紀にかけてフランス激動の時代に生きた人物にちなんだバラは現代にも生き、愛されています。ここでは、革命家のナポレオンと彼を支えた将軍たちにちなんで命名された特徴的なバラたちを、ローズアドバイザーの田中敏夫さんに解説していただきます。今井秀治カメラマンによる美しい写真とともにお楽しみください。

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フランスの皇帝・革命家ナポレオン・ボナパルト

ナポレオン
Matthew Leigh/Shutterstock.com

1793年1月、ルイ16世が処刑されると、これに驚愕した各国は第一次対仏同盟を形成し革命政府の打倒をもくろんだこと、フランスの要害地ヴェルダンにおいてボールペール中佐が革命政府のために最後まで抵抗したことは、前回『時代を彩ったバラ~フランス、絶対王政から革命の時代へ』でお話ししました。

イギリス、プロイセン、オーストリアなどの反革命軍の動静に危機感をいだいたフランス国民公会は国家総動員令を発令し、徴兵制をしいて兵員を集め、兵員は数百万に達する大軍となりました。実は、一国全体といえどもこれほどの兵員を保持することは、それまで例のないことでした。

この後、軍の統制技法や戦術などはこのような大軍を前提として立てられるなど、戦術論に大きな変化をもたらすことになりました。

フランスでは対外ばかりではなく、国内でも革命派、王党派の内乱が続いていました。

1795年、議員選挙に不利な法案が成立したことに怒った王党派はパリ市内で反乱を起こしました。

この反乱はヴァンデミエールの反乱と呼ばれていますが、これを見事に鎮圧したのが、若きナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte : 1769-1821)でした。ナポレオンはその功績から「ヴァンデミエール将軍」と讃えられ、このフランスの危機的状況に際して急速に頭角を現してゆくこととなりました。

サン=ロック教会
ヴァンデミエールの反乱。サントノレ通りのサン=ロック教会界隈 [Public Domain via. Wikipedia Commons]
革命暦ヴァンデミエール(“葡萄月”:現代の9〜10月)、王党派は武装してパリ市街地サントノレ通り(rue Saint-Honoré)に集結し、革命政府の転覆をはかりました。

この武装王党派に対し、野戦砲を持ち出して榴弾の砲撃で王党派を一蹴したのがナポレオンです。市街地で市民に向け野戦砲を使用するということは当時考えられない戦術だったようです。この後、ナポレオンは敵軍の弱点を鋭く衝く柔軟な発想と、適材を有効的に配置し効果を上げるという緻密さと慧眼とで、次々と戦功を上げてゆくことになります。

1796年、革命政府からイタリア方面の司令官に任命されたナポレオンは、ミラノ方面からウィーン郊外までオーストリア軍を追い詰めて屈服させ、翌年凱旋帰国しました。

さらに、1798年、イギリスの制海権を牽制する戦略を立て、エジプトへ出兵します。こうした繁忙のさなか、ナポレオンは、同年パリ郊外のマルメゾン館を購入しました。ナポレオンの新妻ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais)は館でナポレオンの帰国を待つこととなりました。

ナポレオン出征中のジョゼフィーヌとの間の顛末については次回お話しする予定です。

「ナポレオン」という名のバラも、1835年、ラッフェイによるチャイナ・ローズ、1846年、アルディによるガリカがあるようですが、ナポレオンに関わるバラとして一番出回っているのは、次の品種でしょう。

シャポー・ド・ナポレオン(Chapeau de Napoleon)

‘シャポー・ド・ナポレオン
‘シャポー・ド・ナポレオン(ケンティフォリア・クリスタータ)’ Photo/今井秀治

この品種は『ケンティフォリア~古いか新しいか、謎に包まれたオールドローズ』の中で解説しました。

ロサ・ケンティフォリアからの枝変わり種で、つぼみを覆う萼片がナポレオン愛用の帽子に似た形状となることから、‘シャポー・ド・ナポレオン(Chapeau de Napoleon:“ナポレオンの帽子”)’という名前で親しまれています。

なお、この型の帽子は二角帽子と呼ばれる高級将官用のもので、ナポレオンだけが着用していたわけではありません。ただ、ナポレオンは本来、縦に着帽するものを常に横向きにしていて、遠方からでもナポレオンの姿が容易に見分けられたといわれています。

ナポレオンは1815年、ワーテルローにおいてイギリス・プロイセン連合軍に決定的な敗北を喫するまでの長い間、対仏同盟軍との戦闘に明け暮れることとなります。そのほとんどの戦闘で勝利を収めることになるナポレオンのもとには、彼を支えた優れた将軍たちがいました。

そんな、ナポレオン麾下(きか)の将軍たちにちなんだバラがあります。

ナポレオンを支えた将軍、ジャン・ランヌ

ナポレンのもとで戦功を重ねたのが、ジャン・ランヌ(Jean Lannes:1769-1809)です。イタリア北部のモントベロでの武勲によりモントベロ公に叙せられました。

ジャン・ランヌ
ジャン・ランヌ/Portrait of Jean Lanne by Jean-Baptiste Paulin Guérin [Public Domain via. Wikipedia Commons]
ジャン・ランヌは農家出身、フランス革命勃発時から衛兵隊に加わるという血気さかんな人物で、またたく間に指揮官となりました。しかし、上官との対立から一時退役。

1796年、ナポレオンによるイタリア遠征が開始される際、一兵卒として従軍し、著しい戦功を立てた彼を、ナポレオンはすぐに指揮官として取り立てました。ランヌは戦闘に際しては常に先頭に立つという勇猛果敢さで知られていました。

1808年、ジャン・ランヌ将軍はナポレオンの指揮下、ドナウ河畔でのアスペルン・エスリンクの戦いに臨みました。対するは、カール大帝率いるオーストリア軍。

カール大帝は首都ウィーン防衛を放棄してフランス軍へ明け渡し、郊外において自軍の集結を進めるという大胆な作戦を展開しました。そして、対峙するフランス軍と2日間に渡る激しい攻防の末、これを打ち破りました。

ナポレオンが直接指揮をした戦闘において敗北した数少ない例です。

敗走するフランス軍のしんがりをつとめたランヌは、追撃するオーストリア軍と激しい戦闘を続けていましたが、砲弾により右足を負傷、切断手術を受けました。しかし、9日ほど後、この負傷がもとで死去しました。

死に瀕するジャン・ランヌを看取るナポレオン・ボナパルト
死に瀕するジャン・ランヌを看取るナポレオン・ボナパルト [Public Domain via. Wikipedia Commons]
ジャン・ランヌは最初の妻と離婚後、再婚しています。相手は絶世の美女と評された結婚当時18歳のルイーズ・ド・グエヌック(Louise Antoinette Scholastique Guéheneuc)でした。

ルイーズ・グエヌック:デュセス・ド・モンロベロ
ルイーズ・グエヌック:デュセス・ド・モントベロ/Louise de Guéhéneuc [Public Domain via. Wikipedia]
この美しい夫人、モントベロ公爵夫人(Duchesse de Montebello)に捧げられたのが‘デュセス・ド・モントベロ’というガリカです。夫の戦死後は、ナポレオンの再婚相手マリー・ルイーズ付きの女官としても活躍しました。

デュセス・ド・モントベロ(Duchesse de Montebello)

‘デュセス・ド・モンロベロ’
‘デュセス・ド・モントベロ’ Photo/今井秀治

5〜7cm径、小型ながら花弁が密集したロゼット咲き。淡いピンクの花色は、時に中央部分が濃く染まり、じつに優雅です。

樹高120〜150cmほどの優雅にアーチングするシュラブ。くすんだ葉色は花がない季節でも庭に落ち着いた雰囲気を醸し出してくれます。庭でいち早く開花する品種として、古くから愛されてきたバラです。

1828年、フランスのジャン・ラッフェイが育種・公表したとされていますが、ラッフェイが公表した品種は、今日この名前で呼ばれている品種とは異なるものであったという説もあります(”The Ultimate Rose Book”, Peter McHoy, 1997)。

ナポレオンに見いだされた将軍、ジャン・クレベール

ジャン・クレベール(Jean Baptiste Kleber:1753-1800)は、ナポレオンと同時代に生きたフランスの将軍です。

ジャン・P・クレベール
ジャン・P・クレベール-Adèle de Kercado [Public Domain via. Wikipedia Commons]
青年期には建築家になることを目指していましたが、フランス東部のストラスブールというドイツ語圏に生まれたことから、オーストリア軍の兵卒として軍務に就いたこともありました。フランス革命の際には革命軍に参加し、やがて一兵卒から将軍にまで昇進します。

一時退役しましたが、ナポレオンに見いだされ、1798年、ナポレオンのエジプト遠征へ同道します。当時のエジプトはオスマン・トルコ帝国の統治下にありましたが、マムルークと呼ばれる軍団に事実上統治されていました。アレキサンドロからカイロへ向け侵攻するフランス軍は、ギザの大ピラミッド付近へ至ったとき、マムルークの騎兵の急襲を受けました。勇猛果敢に襲いかかる騎兵に対し、フランス軍は方陣を敷いて防ぎ、激戦の末、これを打ち破りました。

これが世に知られたギザ・ピラミッド前の戦いです。ナポレオンは兵を前にして、「兵士諸君、ピラミッドの上から40の世紀に渡る歴史が諸君を見つめている…」と訓示したと伝えられています。

ピラミッド前の戦い
ピラミッド前の戦い-by François Louis Joseph Watteau [Public Domain via. Wikipedia Commons]
じつはクレベールは、それ以前に生じたアレキサンドロでの戦闘の際に負傷し、アレキサンドロに逗留していたため、この戦いには参戦しませんでした。彼が名声を馳せることになるのは、この後のことになります。

ピラミッド前における戦闘では勝利したものの、ナポレオン以下の軍兵を輸送したフランス艦隊は、ネルソン提督が率いる英国艦隊により壊滅的な打撃を被ってしまいました(“ナイルの海戦”)。

英雄ネルソン提督にちなんだバラに、イングリッシュローズの‘レディ・エマ・ハミルトン’があり、これもまたおもしろいエピソードがありますので、別の機会に解説できたらと思います。

さて、ナポレオン軍は、兵站を絶たれて窮地に追い詰められてしまいました。しかし、機を見るに敏なナポレオン、なんと少数の兵のみを率いてフランスへ帰還してしまいました。

15,000名を超える兵卒とともに残されたクレベールは、フランス軍司令官として兵とともにエジプトに駐留することとなってしまいました。

1800年、クレベールはカイロで回教徒の刺客に襲われ死亡しました。司令官を失い孤立したフランス軍、15,000名は翌年、オスマン・トルコ・英国連合軍に降伏することになりました。

じつはこの1800年、逃げ帰ったナポレオンは議会を制して統領となり政権の頂点の座にありました。次第に権力への野望を露わにするナポレオンに対し、革命の精神を継承する純然たる共和制主義者たちは、共和軍司令官であったクレベールを共和制のシンボルとして称えたのでした。

その政治的な影響力を恐れたナポレオンは、帰国したクレベールの遺体の上陸を許さず、マルセイユ沖の牢獄島に留め置く命令を発したほどでした。その後、クレベールの遺骸は曲折を経た後、彼の故郷であるストラブ―ルの記念塔の下に埋葬されています。

このクレベールにちなんで命名されたモスローズがあります。

ジェネラル・クレベール(General Kleber)

‘ジェネラル・クレベール’
‘ジェネラル・クレベール’ Photo/今井秀治

9〜11㎝径、ロゼットまたはクォーター咲き。花色はヴァーミリオン(朱色)が少し入った明るい華やかなピンク。尖り気味の葉先、明るいつや消し葉。樹高120〜180㎝の立ち性のシュラブとなります。

花と樹形のバランスがとれていること、また、全体の印象がいかにも古い由来のものであることを感じさせます。

ヴィベールのもとで働き、彼が引退した後、その農場を継承したロベール(M. Robert)が1856年に育種・公表しました。交配親は不明です。

1806年、ナポレオン率いるフランス軍18万とプロイセンを盟主とする対仏同盟軍15万がドイツのイエナ-アルシュタット(Jena-Auerstadt)において激突しました。

この戦闘においては、機動力にまさるフランスが大勝利をおさめます。プロイセン軍は致命的な打撃をこうむり壊滅、フランス軍のベルリン入城を許してしまいました。この勝利によりフランスは広大な国土を獲得し、皇帝ナポレオンは絶大な権力を手中にし、絶頂期を迎えました。

鉄の元帥、ドルスタット公爵

このイエナ-アルシュタットの戦いでフランス第3軍団を率いて著しい戦功をあげたのが、ルイ=ニコラ・ダヴー(Louis-Nicolas Davout)です。

ルイ=ニコラ・ダヴー
ルイ=ニコラ・ダヴー/ Louis-Nicolas Davout [Public Domain via. Wikipedia Commons]
小柄で若禿げという、いたって風采の上がらない人物でしたが、戦闘においては非凡な能力を発揮し、「鉄の元帥」と呼ばれ、また戦えば必ず勝つという無敵伝説を築き上げました。

ダヴーは、このアルシュタットの戦功により、後にオルスタット公爵に任命されました。彼にちなんだバラがあります。

デュセス・ドルスタット(Duchesse d’Auerstadt)

‘デュセス・ドルスタット
‘デュセス・ドルスタット(Duchesse d’Auerstadt)’/Photo [CC BY-NC-SA 3.0 via. Rose Bilblio])
7〜9cm径、35弁ほどの丸弁咲きまたはカップ咲き、時にロゼット咲きとなる花形。開花初期はミディアムイエローの花色となりますが、熟成するとアプリコットの色合いが出ることが多い品種です。

幅狭で尖り気味の小葉、新芽の赤紫が美しい品種です。柔らかな枝ぶりで、樹高240〜350㎝となるランブラーローズです。

1888年、フランスのブルメ(Bernaix)が公表した品種で、ミディアムイエローのノワゼット、‘レヴ・ドール(Reve d’Or)’の枝変わり種であるというもの、また、‘レヴ・ドール’を交配親として育種されたとするもの、2つの説がありますが、いずれも確定的ではありません。

ナポレオンに尽くした軍人、ジャン・マキシミリアン・ラマルク

次にジャン・マキシミリアン・ラマルク(Jean Maximilien Lamarque:1770-1832)をご紹介しましょう。ラマルクも終生ナポレンに献身的に尽くした軍人です。この記事で度々取り上げているナポレオンによるイタリア方面への侵攻の際には、ナポレオンの継子ウジェンヌ・ボアルネ(ジョゼフィーヌと前夫の間の子)の旗のもと参戦しています。

ジャン・マキシミリアン・ラマルク
ジャン・マキシミリアン・ラマルク:Jean Maximilien Lamarque [Public Domain via. Wikipedia Commons]
皇帝まで昇りつめたものの、ロシア遠征の失敗から凋落し始めたナポレオンは、1814年、第6次対仏同盟軍に敗れます。そして同盟軍のパリ入城を許すと、皇帝からの退位を余儀なくされ、エルバ島へと流されてしまいます。

しかし、翌1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出。帰国し再び帝位に就いた際にも、ラマルクはナポレオンのもとで師団の司令官の任にありました。

しかし、同年、ワーテルローの戦いにおいて、対仏同盟軍であるイギリス・プロイセン連合軍に壊滅的な敗北を喫したナポレオンは、再び退位を余儀なくされ、セント・ヘレナ島へ流刑となってしまいました。

このとき、ラマルクはナポレオンとともに流刑となりましたが、1818年には許されて帰国しました。帰国後は左翼を代表する代議員として政界で活躍しました。

ラマルクは1832年に他界しましたが、その葬儀に参列した市民が暴徒化してしまいます。軍は蜂起した市民を銃撃し数百名が虐殺されるという流血事件となりました(“六月暴動”)。

この事件はヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』において重要な場面として取り入れられています。

執拗な官憲の追及を逃れ、パリの街に隠棲していた主人公ジャン・バルジャンは、愛する義理の娘コゼットとつましいながらも幸せな生活を送っていました。しかし、彼はコゼットが若い恋人マリユスのもとへ去り、その安寧も長くは続かないと知り、苦しんでいました。

そんな中、貧窮する人民の味方であったラマルク氏の葬儀に端を発して勃発した騒動は過激化し、市民が街中にバリケードを築き、立てこもるという事態に至ります。これに対し、軍は発砲して鎮圧をはかりました。

バリケードの中にいたマリユスが負傷したことを知ったジャン・バルジャンは、思い悩んだ末にバリケードへ駆けつけ、瓦礫を押しのけ、負傷したマリユスを救出します。そして、この尋常ではない力技を目撃していたのが、長年、ジャン・バルジャンを追っていたジャヴェール警視でした。

ジャン・バルジャン
マリユスの救出を試みるジャン・バルジャン [Public Domain via. Wikipedia Commons])
ジャン・バルジャンは、はたしてどのようにして執拗なジャヴェールの追跡の手から逃れるのでしょうか…。

ラマルク(Lamarque)

‘ラマルク
‘ラマルク(Lamarque)’Photo/田中敏夫

9〜11cm径、20弁前後の丸弁咲きの花が、株全体に均等に置かれたように優雅に花開きます。花色はアイボリーまたは純白。ティー・ローズ系の強い香り。

樹高350〜500cmほどまで枝を伸ばす大型のシュラブですが、柔らかな枝ぶりですので、ランブラーとしてフェンスなどのほか、パーゴラやピラー(柱)仕立てなどにも向いています。

バラ好きであったフランスの靴職人、マルシェル(Marechal)は自宅の窓際に、‘ブラッシュ・ノワゼット’と、チャイナ・ローズの‘パークス・イエロー’を鉢植えで置いていましたが、結実した種子を植えたところ、この品種が生まれたという話が伝わっています。育種・公表は1830年です。

優雅な花と樹形が広く愛され、庭植えに欠かせない品種としてもてはやされた時代もありました。英国のバラ研究家、グラハム・トーマスは、この品種を、”A great treasure.”(大事な宝物)と絶賛しています(”Graham Stuart Thomas Rose Book”. 1994)。

ナポレオンに忠誠を尽くしたジャン・ジャックミノ

1804年、皇帝の位に就いたナポレオンが、イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによる対仏同盟軍との戦闘に明け暮れていたことは、お話しした通りです。

それらの戦闘のうち、アウステルリッツの戦い(1804)、エスリンクの戦い(1809)、ヴァグラムの戦い(1809)などに前線将校として参加していたのがジャン・ジャックミノ(Jean François Jacqueminot:1787-1865)です。

ナポレオンが、ロシア遠征で数十万の将兵を失うなど大打撃を受けて退位を余儀なくされた後のみならず、エルバ島から舞い戻ったナポレオンのもとで軽騎兵を指揮するなど、ナポレオンへ忠誠を尽くし、また、ナポレオンの没落後までも、共和政へ忠誠を尽くした人物です。退役した後は企業を起こして退役軍人を雇用し、また、議会の代議員に選ばれた後は、シャルル10世による王政復古の時期、首相として反動的な王政復古をはかったポリニャックと鋭く対立もしました。

彼にちなんで命名された名品種があります。

ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)

‘ジェネラル・ジャックミノ
‘ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)’Photo/今井秀治

9〜11cm径、30弁前後、ロゼット咲き、あるいはクォーター咲きの花。クリムゾン・レッドの花色、明るく輝くような赤は多くの愛好家や育種家を魅了し、後の時代の数多くの”赤いバラ”の交配親になりました。強く香ります。

立ち性で樹高120〜180cm、細い硬めの枝ぶりのシュラブとなります。

交配親は次のようなものでした。

種親:無名種(レッド・ブレンドのハイブリッド・パーペチュアル‘グロワール・デ・ロゾマン(Gloire des Rosomanes)’の実生種とクリムゾンのハイブリッド・パーペチュアルとの交配による)

花粉親:‘ジェアン・デ・バテーユ(Géant des Batailles)’

フランスのアマチュア育種家、ルーセル(Roussel)により1853年に公表されました。

現在流通しているほとんどすべての赤い現代バラは、その系列をたどると、この‘ジェネラル・ジャックミノ’にたどり着くと解説する研究者もいるほど大きな影響があった品種です。

モダン・ローズの一つで、優れた赤花品種である‘クリムゾン・グローリー(Crimson Glory)’など多くの赤バラは、その系統をたどってゆくと、この‘ジェネラル・ジャックミノ’へたどり着くといわれています。

Credit

文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたい思いから、2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。

写真/田中敏夫、今井秀治

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