ガリカ、ダマスク、アルバ、ケンティフォリア、モス、チャイナ、ティー、ブルボンなど個性豊かに私たちを魅了するオールドローズの数々。そして、最後に加わったのが、ハイブリッド・パーペチュアル。その誕生の背景とは……。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りするこの連載。今回は、最後のオールドローズであるハイブリッド・パーペチュアルの誕生と品種を解説します。
目次
オールドローズかモダンローズか
ガリカ、ダマスク、アルバ、ケンティフォリア、モス、チャイナ、ティー、ブルボンなど個性豊かなオールドローズの数々。最後にやってきたのがハイブリッド・パーペチュアル(HP)でした。
HPは返り咲きするオールドローズです。春・秋など何回か大輪花を咲かせます。最初のモダンローズ=ハイブリッド・ティー(HT)と花形も樹形も大きな違いはありません。
オールドからモダンローズへの移り変わりは、返り咲きするライト・ピンクの大輪花、最初のハイブリッド・ティー(HT)であるラ・フランスの登場をもって一線を引くのが一般的ですが、実際にはラ・フランスの登場後にも「新しい」オールドローズが生み出されるなど、過渡期は新旧入り混じっていました。中にはHP(オールドローズ)とされたりHT(モダンローズ)とされたり、居場所が定まらない品種も出てきました。
このオールドローズの終わりの時代、フランスで活躍したのがジャン・ラッフェイ(Jean Laffay)でした。パリのサンジェルマン地区に生まれたラッフェイは、1816年、20歳の時には‘ラ・フィリッピン’(La Phillipine)という名のチャイナローズを育種したと記録されています。このことから、年少の頃より育種に興味を持っていたことが分かります。
ラッフェイが本格的に園芸家として自立し、バラ育種のキャリアを積みはじめたのは、パリ西部のオートゥーユ(Auteuil:ブルゴーニュの森近く、現在のパリ16区。今日でも瀟洒な住宅街として知られています)でした。1828年、33歳の時でした。
バラ育種家として本格的な活動を始めた当初、ラッフェイはチャイナローズやティーローズ、ノワゼットなどの育種に取り組んでいました。
しかし、1835年頃から、ミディアム・レッドのブルボン、‘アテラン’(Athelin)および、淡いピンクのブルボン、‘セリン’(Céline)などを主な育種親とし、毎年、数十万にも及ぶ実生生育を行い、その中から、優れた品種を選んで新品種として市場へ提供することを繰り返すようになりました。
オールドローズの集大成「ハイブリッド・パーペチュアル」
彼が目指したのは、丈夫で、大輪の花を繰り返し咲かせる品種を作り出すこと。こうした品種を作り上げる過程から、当時流通していたあらゆる品種の間の自然発生的な交配が持続的に行われることとなりました。ラッフェイはこの成果に自信を深め、自らハイブリッド・パーペチュアル(“四季咲き交配種”:HP)という新しいクラスを提唱しました。主張は多くの賛同を得て、新しいクラスとして認められることとなったのです。
HPは、最後のオールドローズではありますが、ある意味では、オールドローズが最後に到達した地点、その集大成でもあるといえます。
1840年、ラッフェイはオートゥーユから少し南に下がった、ベルヴュ=ムドン(Bellevue-Meudon)へ農場を移しました。土壌の疲弊、病害の恒常的な発生、また、育成の拡大のために既設の農場が手狭になったためだろうと思われます。
ラッフェイの一世代後に活躍することになるバラ研究家・育種家であった英国のウィリアム・ポール(William Paul)はその著作『ザ・ローズ・ガーデン(The Rose Garden)』(初版1848年、以後12版まで)の中で、ラッフェイの功績を讃え、「今日育成されているハイブリッド・パーペチュアルの半分は、ラッフェイ氏が育種したものだ…」と述べています。
名育種家、ラッフェイのバラづくりの情熱
ラッフェイは、老年に達したとき、彼(ポール)へ宛てた手紙の中で、近々引退すると知らせる一方で、モスローズの育種への熱望を述べるなど、衰えることのないバラへの愛情を語っています。
「特にモスローズについては数千に及ぶ播種を実施していますので、わたしはあなたへ優れた品種をお見せできるだろうと思います。それらの実生は数年後には、一見のため訪問する価値があるものになると思います。近い将来、今日我々が賞賛している品種を凌駕する美しい品種を見ることになるだろうと確信しています。モスローズはきっとこれからの園芸界で大きな役割を占めるようになるでしょう」
名育種家ラッフェイが老年にいたってもなお情熱を失わず目指したのは、ケンティフォリアの美しい花形と、野趣に溢れた苔(モス)に包まれた、返り咲きするモスローズの育種だったのです。
1860年、ラッフェイはフランス南海岸(リヴィエラ)のカンヌへ移って余生を過ごします。そして1878年、83歳の天寿を全うして、同地で没しました。
ラッフェイが世に残したバラたち
ラッフェイは生涯、300を超える品種を公表しています。今日でも観賞できる多くの品種の中から、いくつかをご紹介します。
1837年、ラッフェイは‘プランセス・エレーヌ’(Princesse Hélène)を公表しました。この品種は残念ながら失われてしまい、今日では見ることはできませんが、残された記録によれば、モーヴ(藤色)またはパープル気味の赤の大輪花を咲かせたとのことです。この品種は、最初ブルボンとされていたようですが、後日、最初のHPだったと認定されることになります(なお、同名で白花を咲かせるチャイナ〈ハーディ作出〉のチャイナローズがあります。この品種も1837年作出となっています。何か記録違い、混同があったのかもしれません)。
‘グレート・ウェスタン’ (Great Western)
1838年、ラッフェイは一季咲きのブルボン、‘グレート・ウェスタン’を育種し公表しました。
中輪または大輪、花弁をいっぱい詰め込んだようなカップ型の花形となります。
開花当初はクリムゾンまたはディープ・ピンク、次第に青みを加え、バーガンディあるいはパープルへ変化していきます。花弁裏はシルバー気味(淡い色合い)となることが多いようです。
春の一季咲きであることから、HPではなく一季咲きブルボンとされることが多いようです。
フランスで育種されたのに英名で命名されたのが不思議です。1843年刊行の園芸誌『ガーデナーズ・クロニクル(The Gardeners’ Chronicle)』でも、“なぜだろう?”と思案顔のコメントを残しています。
ロンドンのパディントン・ステーション(人気者パディントン・ベアの生まれた駅)からブリストルなどイングランド西部の諸都市を結ぶ鉄道会社グレート・ウェスタン・レールウェイズ(Great Western Railways)にちなんで命名されたと推測すると楽しいです。
映画『ハリー・ポッター』シリーズの中で、キングス・クロス駅の9‐3/4番線から出発する、ホグワーツ魔法学校行き特急は、グレート・ウェスタンが保有する蒸気機関車Hall5972が撮影に使用されたからです。
‘ラ・レーヌ’(La Reine:女王)
大輪、おそらくHPとしては最大輪となる品種の一つです。つぼ型または深いカップ型、ときに果実のように丸まったままとなる花形。わずかに灰色を帯びながら、強いピンクとなる花色。1842年に公表されました。
この品種は当初、ロズ・ド・ラ・レーヌ(Rose de la Reine:”女王のバラ”)と命名されましたが、やがて単にラ・レーヌ(”女王”)と呼ばれるようになりました。多弁花でありながら、よく結実することから交配親として盛んに利用されました。その名にふさわしいHPの頂点を示す、すぐれた品種です。
しかし、この品種は一時市場から姿を消し、失われたと信じられていました。
グラハム・トーマスをして、「この美しい品種を失ったことは、悲しく、理解できない…」(”Graham Stuart Thomas Rose Book”)と嘆かせましたが、幸いなことに南アフリカにおいて再発見されました。
ラッフェイは頻繁に英国を訪れたり、農場をリヴィエラへ移動したり、また、南アフリカでも生産を行うなど活発に活動していました。活動の場の一つであった南アフリカから彼の遺産が見いだされたのは、とても喜ばしいことです。
ラッフェイが目指した大輪花を繰り返し咲かせる品種群(HP)の成功に刺激を受け、他の育種家たちも続々と新品種を公表するようになりました。今日でも見ることができる優れた品種をご紹介しましょう。
‘ジェネラル・ジャックミノ’(Général Jacqueminot)
大輪、35弁前後のロゼッタ咲き、あるいはクォーター咲きの花。花色はクリムゾン、明るく輝くような赤花は多くの愛好家や育種家を魅了し、後の時代の数多くの赤いバラの交配親になりました。1853年、フランスのルスレ(Rousselet)により公表されました。
ルスレはバラ愛好家であったルセール(Roussel)が保有する庭園のガーデナーでした。ルセールが亡くなったのち、ルスレは庭園でルセールが播いたタネから生じた実生株の中に、この美しい赤花品種を見いだしました。これにジャックミノ将軍の名を冠したと伝えられています。(Brent D. Dickerson、“The Old Rose Advisor”)
交配親にはいくつか説がありますが、クリムゾンのHP、‘グロワール・デ・ロゾマン’(Gloire des Rosomanes)の実生から生じたという説が主流となっています。
現在流通しているほとんどすべての赤いモダンローズは、その系列をさかのぼると、この‘ジェネラル・ジャックミノ’にたどり着くと解説する研究者もいるほど大きな影響があった品種です。熟成すると蒼みが出ることが多かったクリムゾンのバラに、鮮やかな赤をもたらしたという功績は、もっと評価されてしかるべきではないかと思っています。HTの赤花は、ここから始まったといってよいでしょう。
ジャックミノ将軍(Jean Francois Jacqueminot :1787-1865)は、ナポレオン・ボナパルトへ忠誠を尽くした軍人です。
1804年、皇帝となったナポレオンは、イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによる対仏同盟との戦闘に明け暮れました。それらの戦闘のうち、ジャックミノはアウステルリッツの戦い(1805)、エスリンクの戦い(1809)、ヴァグラムの戦い(1809)などに前線将校として参戦していました。
ナポレオンはロシア遠征で数十万の将兵を失うなど大打撃を受けてから、急速に凋落し始め、1814年、退位を余儀なくされ、エルバ島へ流刑となりました。
ジャックミノは翌年、ナポレオンがエルバ島を脱出し舞い戻った際にも、軽騎兵を指揮するなどナポレオンへ忠誠を尽くしました。ナポレオンはやがて決定的な敗北をこうむってセント・ヘレナ島へ流刑・監禁されることになりました(“百日天下”)が、フランスに王制が復古した後も、ジャックミノは共和政への肩入れをやめませんでした。
退役後は、起業して退役軍人を雇用し、政界へも進出しました。代議員に選ばれた後は、シャルル10世による王政復古の時期に反動的な政策に偏った首相ポリニャックと鋭く対立するなど、企業家、政治家としても活躍した人物です。
‘ポール・ネイロン’(Paul Neyron)
15cm径を超えるような、オールド・ガーデン・ローズ中で最大といわれる大輪花となります。花弁の表はミディアム・ピンク。裏側はシルバー気味となって、全体的には明るい印象を受けます。
19世紀後半、当時市場に出回っていたHPのピンクの大輪種はラベンダー・シェイド気味のものが多く、沈みがちな色合いであることが一般的でした。‘ポール・ネイロン’の花色は、わずかにラベンダー・シェイド気味であるものの澄んだピンクをしており、多くの愛好家の称賛を集め、“ネイロンズ・ピンク”という呼び名さえ生まれました。
花びらの奥に、やわらかいティーローズ系の香りを保っています(中香)。
直立性の枝ぶり、幾本もの棒を立てたような株の樹冠に豪華絢爛たる花が開花している様子は壮観です。こうした立ち姿の品種は、この‘ポール・ネイロン’のほか、ポートランドの‘レンブラント’ぐらいしか見当たらない特異なものです。
1869年、フランス・リヨンのアントワーヌ・ルベ(Antoine Levet)が公表しました。ディープ・ピンクのHP、‘ヴィクトール・ヴェルディエ’(Victor Verdier)と、HP、‘アンナ・ド・ディーズバッハ’(Anna de Diesbach)との交配により育種されたと記録されています。香りや花色、葉の様子、樹形などからは、ティーローズの影響を強く感じさせます。
ポール・ネイロンは育成者、ルベの友人です。この品種が捧げられたときには存命でしたが、後に普仏戦争(1870-1871)に衛生兵として参戦し、戦死してしまいました。
日本へも早くから渡来しており、「陽台の夢(ようだいのゆめ)」という和名で流通していました。
‘フラウ・カール・ドルシュキ’(Frau Karl Druschki)
大輪、35弁ほどのダブル、高芯咲きの花形となります。ハイブリッド・ティーの初期の花々に似ていますが、花は多少丸みを帯びています。紅色に色づいていたつぼみは開花すると純白となりますが、花弁の縁につぼみのときの紅色が残ることもあります。1901年、ドイツの名育種家、ペーター・ランベルト(Peter Lambert)が1901年に育種・公表しました。
ライト・ピンクのHP、‘メルヴィル・ド・リヨン’(Merveille de Lyon)とペルネ=ドウシェが作出した、ピンクのHT、‘マダム・カロリーヌ・テストー’(Mme. Caroline Testout)との交配により生み出されました。
‘フラウ・カール・ドルシュキ’(カール・ドルシュキ夫人)は、当時のドイツ・バラ協会々長夫人です。
ドイツ名での流通がむずかしいと判断されたのでしょう、フランスでは‘レーヌ・デ・ネージュ’(Rene des Neiges:”雪の女王”)、イギリスでは‘スノー・クィーン’(Snow Queen)、アメリカでは‘ホワイト・アメリカン・ビューティ’(White American Beauty)と呼ばれることもあります。
育成から年月を経ても高い人気を得ている白バラです。香りがないことを除けば、”完璧”といってよいほど完成された品種です。
‘ヒュー・ディクソン’(Hugh Dickson)
大輪、開き気味の丸弁咲きの花形。花色は少しピンク・シェイドがかかったクリムゾン、落ち着いた色合いです。
淡い色合いの品種の育種が多かった18世紀後半、大輪、深い赤、鮮やかなピンクなどの強い印象を与える品種を発表して、新しい流れを築いた、アイルランドのディクソン農場が育種した品種の一つです。1905年に公表されました。
ディクソン家は、北アイルランドに所在する長い伝統を誇るバラ育種農場です。
1836年に、アレクサンダー・ディクソンI世により園芸植物圃場として設立され、次世代のジョージI世の時代からバラの育種に携わるようになりました。1879年のことでした。以来、代を重ねながら、数多くの大輪品種を世に送り出し続けています。現在でも農場はディクソン家によって運営されています。
ヒューは農場の3代目に当たります。この品種の公表の前年に他界していますので、後を継いだ甥のアレキサンダーII世が叔父にちなんで命名したものと思われます。
ダーク・レッドのHP、‘ロード・ベーコン’(Lord Bacon)と、やは、ダーク・レッドのチャイナローズ、‘グルス・アン・テプリツ’(Gruss an Teplitz)との交配により生み出されました。
育種の由来から、ハイブリッド・パーペチュアルの一品種とされていますが、花形、樹形、また香りもハイブリッド・ティーに近いため、モダンローズにクラス分けする研究者もいます。
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Credit
文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたい思いから、2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。
写真/今井秀治
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