花の女王と称されるバラは、世界中で愛されている植物の一大グループです。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りする連載。今回は、バラの歴史上、もっとも偉大な育種家と評されるジャン=ピエール・ヴィベールのお話です。今井秀治カメラマンが撮影した美しいヴィベールのバラ写真と共にお楽しみください。
目次
フランス激動の時代にパリの商家に生まれる
もっとも偉大なバラの育種家と評されるジャン=ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert )は1777年、パリの商家に生まれました。時代はフランス革命前夜、ルイ16世(在位1774-1792)治世の時代、隆盛を誇った絶対王政も爛熟期を迎え、凋落の一途にありました。
1789年、パリ市民によるバスチーユ牢獄襲撃に端を発したフランス革命は、やがて国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットをギロチンに架すなど混乱をきわめていきました。
この混乱期に共和軍を指揮して戦功をあげ、頭角を現したのがナポレオンでした。 1796年、ナポレオンはイタリア戦線の軍司令官として遠征します。18歳の若きヴィベールはこの軍に兵卒として参戦しますが、負傷してパリへ帰還しました。
パリに戻ったヴィベールは退役して金物商となり、1804年には独立。翌年には伴侶アデール(Adèle Heun)を得て商店を切り盛りしていました。このころ、ヴィベールは当時著名な園芸家でバラ研究家であったデュポン(後にマルメゾン宮殿の植栽を指導する)の知遇を得てバラに魅了され、数多くはないものの、バラのコレクションを持っていたといわれています。
1813年、ヴィベールはパリ、モンパルナスの金物店を閉店し、パリ南東郊外のシェンヌヴィエール(Chennevières)に農場を開きました。
不幸に見舞われる中、バラの育種を突き進める
ヴィベールはパリ近郊のサン=ドニでバラ農場を経営していたデスメからバラのコレクションに加え、育種した品種、育種に関するノートを譲り受けました(『オールドローズ~黎明期の育種家たち』で解説しました)。
将来に夢を託したスタートだったと思われますが、その直後、末娘アデレード(Adelaide)が病死(1815年)、さらにその数カ月後には妻アデールをも病気で失ってしまうという不幸に見舞われてしまいます(1816年)。
しかし、不幸にも負けず、ヴィベールは早くも1816年には新品種を公表し、その後1851年まで、害虫被害(イギリスから飛来したとされるコガネムシによるもの。幼虫が地中にひそみ、根を食害する)を避けるため、シェンヌヴィエールからサン=ドニ(Saint-Denis)、アンジェ(Angers)へと何回か国内を転地しながらも、たゆむことなく多くの品種を世に送り出しました。
35年の間に600種を超える品種を公表
育種は、原種の交雑種から、ガリカ、ケンティフォリア、アルバ、ダマスク、チャイナ、ティー、ノワゼット、ポートランド、ハイブリッド・パーペチュアルなど、当時流通していたほとんどすべてのクラスに及んでいます。そのいずれのクラスにも輝かしい足跡を残し、多くの品種が今日のバラ愛好家への貴重な遺産となりました。
晩年のヴィベール
1851年、74歳のとき、ヴィベールはヘッド・ガーデナーであったロベール(Robert)へ農場を譲渡して引退しました。1816年から1851年までの35年の間に600種を超える品種を公表し、“最も偉大な育種家”と呼ばれています。
死の直前、孫に向かい、
「わしが愛したのは、ナポレオンとバラだけだった…いついつまでも忌々しくわしを苦しめたのは、イギリス人だ。やつらは、わしのアイドルであったナポレオンを打ち倒し、バラを死滅させる白芋虫を送りつけたからだ」
と語ったと伝えられています。
引退後はパリに居住し、園芸コラムなどを記述していましたが、1866年、89歳の天寿をまっとうしました。(Brent C. Dickerson, “Jean-Pierre Vibert” , 1998)
ヴィベールが育種した代表的なバラ5選
デュシェス・ダングレーム
(Duchesse d’Angouleme)
薄くデリケートな花弁を無理やり詰め込んだようなカップ型で、ロゼット咲きとなる花形です。ライトピンクの花色は、まるで透けているようで、ザ・ワックス・ローズ(the Wax Rose)という呼び方をされることもあります。
ガリカにクラス分けされるのが普通ですが、ケンティフォリアとされることもあるなど、クラス分けが定まりません。また、アガータ・インカルナータ(Agathe Incarnata)は、このデュシェス・ダングレームと同じ品種(Graham S. Thomas)とも、違うもの(Dickerson、Joyaux)ともいわれ、異論の多い品種でもあります。
デュシェス・ダングレーム(アングレーム公爵夫人:1778-1851)は、フランス革命で刑死した、ルイ16世とマリー・アントワネットに授かった第一子、マリー・テレーズのことです。
フランス革命勃発後、ティレリー宮に幽閉されていたルイ16世一家は、1791年、オーストリアへの亡命を試みます。しかし、国境近くのヴェレンヌまで至ったところで捉えられ、ティレリー宮へ戻されました(ヴェレンヌ事件)。
このとき12歳だったマリー・テレーズは、父母と行動を共にしていました。パリへ戻された後は父母と一緒に、初めはティレリー宮へ、後にタンブル塔へ幽閉されましたが、両親の刑死の2年後、国外追放となりました。一家はそれぞれ独房へ監禁されていたため、追放の時点まで、両親と叔母の刑死も、弟ルイ17世の病死の事実も知りませんでした。
1799年、従兄弟であるルイ・アントワーヌ(アングレーム公爵:Louis Antoine, duc d’Angoulême)と結婚しました。義父となった叔父アルトワ伯爵(Comte d’Artois)はルイ16世の弟です。
アルトワ伯は、ナポレオンが失脚した1814年に帰国し、王政復古後、シャルル10世として王位につくことになります。
マリー・テレーズは夫とともに義父アルトワ伯と行動を共にし、帰国した後は、ボナパルティストと呼ばれたナポレオン支持者たちへのテロを扇動するという過激な行動に出ることとなります。
これは、両親をギロチンに架され、多感な十代を独房で過ごさざるを得なかったことへの恨みからの行動と思われます。
1830年、七月革命により王制が廃止されると再び亡命生活を送ることになり、以後は帰国することなく生涯を終えました。
エメ・ヴィベール
(Aimée Vibert)
春の開花時には、丸弁咲きの花が株全体を覆い尽くすような見事な房咲きとなります。明るいピンクに色づいていたツボミは、開花すると純白になりますが、わずかにピンクが残ることもあります。また、微かにムスク系の香りがするノワゼットです。
エメ・ヴィベールは、ジャン・ピエール・ヴィベールの娘です。
『ザ・ローズ・マニュアル(The Rose Manual)』(1844)の著作で知られるロバート・ブルーイスト(Robert Bruist)は、作出者ヴィベールを農場に訪ねたときのことを著作の中で記述しています。
「ヴィベール氏は、私にこの品種をよく見るようにうながし、そして、『この品種はこのように美しいので、愛する娘の名前をとって、エメ・ヴィベールと名づけたのです』と言った。
この2つのエメ・ヴィベール、バラと若い娘が、ともに満開に咲き誇り、名前にふさわしい愛らしさ(Aimeeはラテン語で“愛らしい”の意)を備えているのを同時に見つめることができる幸運に恵まれた私には、彼の情熱はすぐに納得できるものだった」。
ヨランド・ダラゴン
(Yolande d’Aragon)
オールドローズとしては例外的な大輪、花はつぼ形で、ダマスク・パーペチュアル(ポートランド)にクラス分けされています。ライラック・ピンクの花色は中心部が色濃く染まる、実に美しい品種です。
ヨランド・ダラゴン(Yolande d’Aragon:1384-1442)は、フランスのアンジュ(Anjou、現在のMaine et Loire地方)の領主であったルイ2世の妻です。
ナポリおよびシシリーの支配権をめぐる争いに明け暮れた夫を助けて功があり、夫の死後は義理の息子が巻き込まれた政争の中で、一族の利益を守るために適切な指針を与えた、気丈な女性として知られています。
時のフランスは、イングランドとの間で断続的に続いていた百年戦争の時代でした。王族シャルル(後の国王シャルル7世)やジャンヌ・ダルクを援助したことでも知られています。また、孫娘のマルグリットをイングランド王ヘンリー6世に嫁がせました。後に英語名でマーガレットと呼ばれるイングランド王妃は、ヨーク家とランカスター家の間で勃発した三十年戦争の立て役者の一人となりました。
ヨランドは激動の時代に生きた、美しく、賢く、女の身体に男の心を持っていると賛辞を受けた女性です。
ラ・ヴィル・ド・ブルッセル
(La Ville de Bruxelles)
全体を覆うほど大きな顎筒に包み込まれたつぼみは、開花すると、カップ型・ロゼッタ咲きの花形となります。オールドローズの中では、ポール・ネイロンなどと最大径を争う、大輪花を咲かせる品種です。
花色はディープ・ピンクと登録されていますが、照り(シルバー)気味のミディアムピンクの花色とするのが適切ではないかと考えています。この品種こそ、ダマスクの頂点にあると断言してよいのではないでしょうか。
ド・ラ・グリフェレ
(De la Grifferaie)
波打った花弁を詰め込んだような、丸弁咲き、又は平咲きの花です。3〜5輪ほどの小さな房咲きの場合が多く、春はその房がまんべんなく株を覆い尽くして見事です。
開花時、深いクリムゾンであった花色は、時の経過にしたがい急速に退色し、ピンクへと変化します。中には、ほとんど白に近いものもあります。新しいクリムゾンの花と、退色したピンクの花がグラデーションの効果を生み、また、花自体にもストライプや班模様が出るなど、めまぐるしく変化する色合いが特徴です。
細いけれど固めの枝ぶり。シュートの発生の多い、樹高250〜350cmの高性のシュラブとなります。樹形や花つきなどから、ノイバラ交配種(Hyburid Multiflora)にクラス分けされていますが、その一方で、くすんだような深い葉色、丸めの葉形、茶色の小さな棘など、ガリカに似通った形質が見られます。
もともと、ノイバラ交配系にはディープピンクなどの深い花色が見られないため、後に、ノイバラ系の赤花系の交配親として多く使用されました。
1845年、ヴィベールにより育種・公表されたというのが通説ですが、ヴィベールの研究で名高いディッカーソンは否定的な見解を述べています。
併せて読みたい
・花の女王バラを紐解く「オールドローズ~黎明期の育種家たち」
・花の女王バラを紐解く「ガリカ~最初の庭植えバラ」
・花の女王バラを紐解く「オールドローズとモダンローズ」
Credit
文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたい思いから、2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。
写真/今井秀治
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