花の女王と称されるバラは、世界中で愛されている植物の一大グループです。数多くの魅力的な品種には、それぞれ誕生秘話や語り継がれてきた逸話、神話など、多くの物語があります。「バラをもっと深く知り、多くの人に伝えたい」と数々の文献に触れてきたローズアドバイザーの田中敏夫さんが、バラの魅力を深掘りします。今井秀治カメラマンの美しいバラの写真とともにお楽しみください。

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オールドローズの研究家が挙げた15種のバラ

フランス国立東洋言語文化研究所に在籍しているフランソワ・ジョワイオ(Francois Joyaux)教授は、中国現代史の気鋭の研究家として知られています。翻訳されている『中国の外交』は中国外交の概説書として高い評価を得ています。そんな教授ですが、実はオールドローズの研究家としても著名な方です。

ジョワイオ教授の著書『フランスのバラ(La Rose de France)』(1998年刊行)は、ガリカの解説書として出色のものです。教授はこの著書のはじめに次のように述べています。

「フランスのバラ(ガリカのこと)といっても、実際には18世紀前半までは薬用としてガリカ・オフィキナーリス(アポシカリー・ローズ=薬剤師のバラ)ばかりが広く栽培されているに過ぎなかった…

18世紀の末、フランスには低地地方(オランダ・ベルギー)から多くのケンティフォリアがもたらされていた。(ガリカの商品価値はあまり評価されていなかった)

ケンティフォリアに付随するかたちでポツポツとガリカもフランスへもたらされるようになり、第一帝政終了時(1815年、ナポレオン1世がワーテルローの戦いで敗れて退位し流刑になった時期、ジョゼフィーヌのマルメゾン宮殿のバラ・コレクションが完結するころ)、500種ほどが知られるようになった…

そのうち15種ほどが今日でも植栽されており、特定できると思われる…」

これらの品種は国内では入手困難なものが多いのですが、現代でも何種かは出回っています。いくつかご紹介しましょう。

ビザール・トリオンホン/シャルル・ドゥ・ミル
(Bizarre triomphant/Charles de Mills)

Photo/今井秀治

花の女王バラを紐解く「赤バラか白バラか、王位をめぐる薔薇戦争」』でご紹介したパープル濃色のガリカです。

ベル・サン・フラットリ
(Belle sans flatterie)

Photo/今井秀治

花弁がこぼれんばかりに密集するロゼッタ咲き、またはクォーター咲きとなる花形。しばしば花心に緑芽が生じます。花色はミディアムピンク、外縁は淡く抜け、中心はラベンダー気味に色づく、非常に美しい品種です。1806年以前には、すでに市場にあったといわれています。バラ育種の黎明期にこのように完成された品種があったということに驚きを禁じえません。

ベル・サン・フラットリとは「お世辞抜きの美しさ」という意味です。

ラ・ベル・スルタン
(La Belle Sultane)

La Belle Sultane, by Jean-Marc Pascolo [CC BY-SA 3.0 from Wikimedia Commons]
ガリカにクラス分けされていますが、小型のブッシュとなることが多いガリカの中にあって、例外的に大きな樹形となるため、多くの研究者がガリカとダマスクの交雑により生じたのではないかと見ています。

この、ラ・ベル・スルタン(La Belle Sultane:麗しのトルコ皇妃)には非常に興味深い話が伝えられています。

ナポレオン皇妃となったジョゼフィーヌは、実はカリブ海・西インド諸島のマルティニック島の出身でした。ジョゼフィーヌの従妹のエメ・デュ・ブク・ド・リヴェリ(Aimée du Buc de Rivery)は教育を受けるためマルティニック島からフランスへ向かいました。その航海の途中、イスラム系の海賊に捉えられ奴隷にされてしまいました。彼女は後にコンスタンチノープルのハーレムに送られ、第27代オスマン・トルコ皇帝、アブデュルハミト1世の皇妾となりました。

Aimée du Buc de Rivéry [Public Domain via. Wikipedia Commons]
アブデュルハミト1世は、ヨーロッパ文化への造詣が深く、古い伝統を打破しようと軍隊の近代化を図るなど開化派の皇帝でした。宮殿はロココ式に装飾されていたともいわれています。

しかし、クリミア半島へ進駐するロシアを防ぐことができず、手痛い敗戦により領土を失うなど、オスマン・トルコの凋落を象徴する皇帝でもありました。

このアブデュルハミト1世にフランス語を教え、のちに第30代皇帝となるマフムト2世の母となったのがエメ・デュ・ブク・ド・リヴェリ(イスラム名:ナクシ・ディル・ハセキ:Naksh i Dil Haseki)であったという言い伝えです。

西インド諸島マルティークという熱帯の島に生まれ、従妹同士であった、ジョゼフィーヌとエメ・デュ・ブクは、ともに皇妃となったという伝説ですが、実際はマフムト2世の母親がフランス人であったという噂から紡ぎ出された物語であり、歴史的には実証されていません。

最近の研究結果によれば、ジョワイオ教授が挙げた15種のうち、いくつかは低地地方由来ではなく、実際はドイツで育種され、ベルギーまたはオランダを経由して、デスメなど18世紀末から19世紀初頭のバラ界をリードしたフランスの育種家たちの手に渡ったと見られるようになりました。

このバラ育種の黎明期にドイツで活躍したのがダニエル・A・シュワルツコフ(Daniel August Schwarzkopf :1737-1817)です。

ドイツで活躍した初めての育種家シュワルツコフ

シュワルツコフはドイツ、ライプチヒ北西のオストラウ(Ostrau)で生まれました。父は庭園長であり、ダニエルも地元の学校で初等教育を受けたのち父のもとで生業を手伝い、 ヴォルフェンビュッテル(Wolfenbüttel)や ヘレンハウゼン(Herrenhausen)などでも修行を積みました。

1757年、19歳のときにシューレンブルグ伯爵家のガーデナーとなり、さらにオランダ、英国でも修行を重ねました。1766年(28歳)、ヴァイセンシュタイン城(Schloss Weißenstein )の庭園長に就任し、当時流行していた中国式庭園の設計・施工にたずさわりました。

“Palacio de Weißenstein” [Public Domain via. Wikipedia Commons]
シュワルツコフが活躍した時代は、フランス最初の育種家と評されるデスメや、最も偉大な育種家といわれるヴィベールなどが世に出る19世紀初頭よりも以前のことです。

こうした先駆的な業績から、ドイツにおける最初のバラ育種家であると讃えられることとなりました。残された美しい品種とともに、先駆者としての業績をもっと声高に世に伝えられるべきだろうと思います。現在、シュワルツコフが作出した品種を国内で入手するのは難しいようです。

フランスで本格的にバラの育種を進めたデスメ

シュワルツコフには少し遅れましたが、フランスにおいて最初に本格的にバラの育種に取り組んだのが、ジャック=ルイ・デスメ(Jacques-Louis Descemet:1761-1839 )でした。

デスメは1761年、パリに生まれました。生家は16世紀から続く薬草園ジャルダン・デ・ザポティケール(Jardin des Apothicaires;薬剤師の庭)を代々管理していました。

1793年、フランス革命の嵐は止むことなく吹きつのっていました。1月には国王ルイ16世、10月には王妃マリー・アントワネットが刑死、パリには革命裁判所が設置され、反革命の烙印を押された政治犯たちが次々にギロチンにかけられていた時代でした。

この年、デスメは薬草園を売却し、パリ北東郊外のサン=ドニ(Saint-Denis)に農場を開設しました。32歳の頃です。

1914年頃のサン=ドニの園芸農場。[Public Domain via. Wikipedia Commons]
1804年、共和制の擁護者として登場した英雄ナポレオンは、やがて皇位に就こうという野心にとらわれるようになりました。その年の末には国民の賛同を得て、皇帝として絢爛たる戴冠式を行うことになります。

デスメはこのころ41歳、バラ栽培に取り組むようになりました。また、政治活動にも熱心で、1809年にはサン=ドニの市議会議員となり、1812〜1814年は市長も務めあげました。

デスメはまた名高いジョゼフィーヌのバラ・コレクションのために、パリや近郊で活動していたヴィルモラナンドルー(Vilmorin-Andrieux)、デュポン(Andre Du Pont)やコドフロワ(Codfroy)とともに多くの品種を提供したといわれています。デュポンなどはバラ研究家として高名でしたが、育種は行っていませんでした。デスメこそフランスにおける先駆的な、事実上、最初のバラ育種家であったと評されています。

1815年、デスメのコレクション250種がヴィベール(Jean-Pierre Vibert)へ譲渡された際、250種のうち3分の2(160~170種)はデスメが交配を行ったオリジナル品種だったと伝えられています。

1815年は、皇帝ナポレオンがついにプロシャ、ロシア、イギリスなどの対仏同盟軍に敗れ、権力の座から転げ落ちた時代でした。退位してエルバ島へ追放されたナポレオン1世は、同年、パリへ舞い戻って再び皇位に就きましたが、ワーテルローにおいてイギリス・プロシャ連合軍に決定的な敗北を喫し、再び退位を余儀なくされました(百日天下)。それ以前よりパリから逃れていたルイ18世は再びパリへ戻り、同盟軍の支援のもと再び王位に就きました。

このとき、サンドニのデスメ農場は侵攻したイギリス軍によって蹂躙されました。また、デスメ自身も進歩的な政治思想を信奉していたことが影響したのか(当時先鋭的な政治思想家たちの集まりだったフリー・メイソンのメンバーだった)、復古王制政府から国外追放に処せられてしまいました。

デスメが保持していた交配種、ノートなどの主な資材・資料は、パリで園芸店を営んでいたヴィベールへ譲渡されました。別名をつけて市場へ提供されたものも中にはあったようですが、ヴィベールはデスメに恩義を深く感じていたのでしょう。1819年から発行していたカタログの中で、200種ほどをデスメの作出品種としてリスト・アップしています。

パリを追放されたデスメは、ロシア帝国、黒海沿岸の港湾都市オデッサ(現ウクライナ)へと亡命しました。ここで1820年に開設された植物園の管理にたずさわるようになり、1839年、同地で没するまで従事しました(享年78歳)。なお、オデッサにおいてはバラの育種を再開することはありませんでした。

デスメに育種された品種は、ヴィベールの尽力によりかなりの数が今日まで伝えられていますが、育種年はほとんど‘1815年以前’とのみ記述されています。これは、フランス革命からナポレオンによる統治、復古王制などフランスにおける激動の時代の渦中、資料が散逸してしまったためです。

デスメが育種した品種

アンペラトリス・ジョゼフィーヌ
(Impératrice Joséphine:英名=エンプレス・ジョゼフィーヌ)

Photo/今井秀治

デスメにより育種されたと伝えられた品種のうち、もっとも名高いのは、アンペラトリス・ジョゼフィーヌでしょう。この品種は『花の女王バラを紐解く「赤バラか白バラか、王位をめぐる薔薇戦争」』の中でもご紹介しましたので、詳細は省きます。

その他、今日でも世界中で愛されているデスメが作出したバラには、次のようなものがあります。

ファニー・ビア(Fanny Bias)

ラベンダー・シェイド気味の明るいピンク、外輪が淡い色合になることが多い美しいガリカです。デスメが育種したときは、アタリ(Atalie)あるいはデュセス・ド・レジオ(Duchesse de Reggio)と呼んでいたよ

うですが、ヴィベールが市場へ提供する際、当時の著名なダンサーであったファニー・ビアの名を冠したというのが真相のようです。

“Costume for Fanny Bias” [Public Domain via. Wikipedia Commons]

ル・ロジエ・エヴェック/ザ・ビショップ
(Le Rosier Évêque/The Bishop)

Photo/今井秀治

ロゼット咲き、深いマジェンタの花色、開花後に色は深みを加え、青味を帯びたバイオレットへと変化します。また、時に白の斑やストライプが入ることもあります。ガリカにクラス分けされることが一般的ですが、ケンティフォリアとされることもあります。エヴェックとは司教のこと、英訳名であるザ・ビショップ(The Bishop)のほうが品種名としては一般的かもしれません。

クローリス(Chloris)

Photo/今井秀治

ルーズなロゼット咲きとなり、花心に緑芽ができることもある花形。花色は淡いピンクで、中心部は色濃く染まり、外縁部の淡い色合いとの対比が実に優雅です。

ガリカとされることもあるのですが、おそらく間違いだろうといわれています。淡い色合いの美しい多弁花、明るい色のつや消し葉、立ち性の樹形など、典型的なアルバの特徴を示していることから、アルバとするのが適切と思います。

クローリスは、ギリシャ神話に登場する女神、またはニンフです。花の女神フローラと同一視されることもしばしばあります。

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Credit

文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたい思いから、2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。
写真/今井秀治

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