冬の寒さに耐えたラベンダーが小さな緑色の新芽を見せ始めるのは4月。5月になると細長い花穂が伸び、6月にはその花穂が青紫色に色づく。古来、ラベンダーの美しい花と甘い香りは多くの人に愛されてきた。
そして時にはラベンダーに恋をした人々もいた──。
恋は蜜のように甘い愛の歓びを運ぶ。
けれども、恋は時には人に道を踏み外させ、犯罪に走らせることもある。
英国のキュー王立植物園で研究員をしていたある若い女性の場合もそうだった。

恋人はラベンダー
この女性は大学で植物学や庭園史を学び、キュー植物園に就職。園内の植物の管理記録の整理や文献学的な研究などを任されていた。
人付き合いはどちらかといえば苦手で、男性との恋愛経験もまだなかったが、しかし彼女には恋人がいた。
その熱愛の相手──。
それはラベンダーだった。
甘く香る花のそばで
初夏、花穂が色づく頃になると、彼女は研究室を出て園内のラベンダーが植栽されている場所に行き、うっとりと過ごした。
青紫色の美しい花、心地よい爽やかな香り。ラベンダーの繁みのそばに腰をおろしていると、彼女は興奮すら感じるのだった。
原産地は中近東及び地中海沿岸

ラベンダーは中近東から地中海沿岸にかけての乾燥した山岳丘陵地帯が原産地。英国には古代ローマ人がブリテン島に侵攻し、征服したときに伝えられたとされている。
シェイクスピアが1610年に書いた『冬物語』というお芝居には、ミントやマージョラムなどとともに「香り高いラベンダー」が登場する。ロンドンの観客たちにも、ラベンダーは当時すでに馴染み深い植物になっていたのだろう。
英国人はラベンダーが大好き

その後、17世紀の半ばにフランスでプロテスタント教徒への弾圧が始まり、知識人を含む何万人ものフランス人が英国へと逃れたときにもラベンダーが持ち込まれ、英国の社会にこの植物を愛好する趣味が以前にもまして浸透した。
その愛好趣味は英国人が多数移住したカナダやオーストラリアにも伝えられ、さまざまな利用法が考案されていった。
英国の人々がどれほどラベンダーという植物を好んだか、またラベンダーがどれほど深く一般庶民の生活の中に入り込んでいたかは、児童文学作家アリソン・アトリーの『農場に暮らして』という作品や、モンゴメリの『赤毛のアン』などによって知ることができる。
キュー植物園研究員の女性は、英国のそうしたラベンダー愛好趣味の真っ只中で育ち、やがてラベンダーに熱烈な恋をするようになったのだった。
恋ゆえの犯罪

1911年頃、彼女は300種類以上あるラベンダーを自分なりに再分類してみようと思い立った。
これは研究者としてはなかなか意欲的な、十分に誉められてよい思いつきだったといえる。だが、この思いつきが彼女をとんでもない犯罪に走らせることになる。
ラベンダーにはいくつかの原種の系統があるが、その中で最も花が美しく、香りもいいのは、ラテン語学名で「ラヴァンデュラ・アングスティフォリア」、または「ラヴァンデュラ・オフィキナリス」という種類。
「アングスティフォリア」とは「細い葉の」、「オフィキナリス」とは「薬用の」という意味で、古代ローマ人が入浴の際の芳香剤として、また医薬品として愛用していたのがこのラベンダーだった。
たぶん彼女も、このラベンダーが一番好きだったのだろう。独自に再分類を行ったとき、あろうことか、彼女は「ラヴァンデュラ・アングスティフォリア(オフィキナリス)」に「イングリッシュ・ラベンダー」という名称を与えてしまった。
同名の香水が大ヒット

その直後の1913年、英国の化粧品会社ヤードレーが『イングリッシュ・ラベンダー』という男性用の香水を発売。格調高い上品な香りで人気を呼び、たちまち大ヒット商品となった。
こうしてイングリッシュ・ラベンダーという言葉が広く流通するようになり、ついにはラベンダーの品種名として定着することになった。
しかし、このキュー植物園の女性研究員がやったことは、とうてい許すことのできない文化的な犯罪だといえる。それは例えていえば、他国の土地に勝手に英国国旗を立て、ここは英国の領土だと主張するようなものであり、一種の帝国主義的な侵略行為にほかならない。
もちろん、彼女自身は自分の行為が犯罪に当たるとは思ってもいなかっただろう。むしろ彼女は、一番美しく、一番香りのいいラベンダーに「イングリッシュ」という自国名を冠したことが誇らしく、鼻高々だったかもしれない。
誤った言葉が一人歩き
そんなわけで、専門家の中には「イングリッシュ・ラベンダーなどというラベンダーは存在しない」と断言する人もいる。また、「イングリッシュ・ラベンダーという言い方には問題がある」と、やや控えめに指摘する人もいる。
いずれにしても、イングリッシュ・ラベンダーという呼称は、とりわけ日本ではいまやごく一般的なものとなっており、いまさら修正のしようがない。
確かに、イングリッシュ・ラベンダーというのは耳ざわりがよく、いかにもそれらしい言葉ではある。大手種苗会社をはじめ、通販サイト、園芸業者などが、こぞってこの名称を使っているのは、その意味では当然だともいえる。
恋は甘く、恋は罪深い

しかし、イングリッシュ・ラベンダーという呼称は、あたかも英国がラベンダーの原産地であるかのような誤解も広げている。だが、前にも述べた通り、英国にとってラベンダーは外国からの渡来植物であり、原産地ではない。
それにしても、キュー植物園の女性研究員は何と罪深い過ちを犯してしまったことか。彼女の罪が後世に残した禍根は100年以上経った現在も消えてはいないし、おそらく今後も決して消えることはないだろう。
まことに恋は甘く、恋は恐ろしい。
Credit
文/岡崎英生
ラベンダー栽培史研究家。ラベンダーの原産地の一つ、フランス・プロヴァンス地方や北海道富良野地方のラベンダーの栽培史を研究。日本のラベンダー栽培の第一人者、富田忠雄氏に取材した『富良野ラベンダー物語』(遊人工房刊)や訳書『ラベンダーとラバンジン』(クリスティアヌ・ムニエ著、フレグランスジャーナル社)など、ラベンダーに関する著書を執筆。自らも長野の庭でラベンダーを栽培し、暮らしの中で活用している。
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