アゲハチョウの誕生を見守る【写真家・松本路子のルーフバルコニー便り】
マンションのバルコニーもガーデニングを一年中楽しめる屋外空間です。都会のマンションの最上階、25㎡のバルコニーがある住まいに移って2019年で27年。自らバラで埋め尽くされる場所へと変えたのは、写真家の松本路子さん。「開花や果物の収穫の瞬間のときめき、苦も楽も彩りとなる折々の庭仕事」を綴る松本さんのガーデン・ストーリー。今回は、バルコニーの可愛いお客さん、アゲハチョウの観察話をご紹介します。
目次
レモンの木から
我が家のバルコニーには2本のレモンの木がある。花が咲き終わり小さな実をつける頃、その木にアゲハチョウが卵を産み付ける。柑橘類の葉は幼虫の大好物なのだ。
卵から幼虫が孵(かえ)っても、たいていは小さなうちに鳥に捕まり、いつしか姿を消していた。だが今年、葉陰に隠れていた緑色の幼虫を見つけた時、ふと育ててみようか、という気になった。以前、コラージュ作家の合田ノブヨさんのブログに、自宅で羽化した蝶の写真があったのを思い出したのだ。
彼女から幼虫の育て方を教えてもらい、箱に網をかぶせた簡易の虫カゴを用意した。それから目を凝らしてレモンの葉の上を探すと、合計8匹の幼虫が見つかった。成長具合もさまざまだったので、以来、次々と羽化するアゲハチョウの誕生に立ち会うこととなった。
濡れた羽の美しさ
リビングルームに置かれた箱の中で蝶が生まれる瞬間は感動的だった。誕生したばかりの羽は濡れて光り、模様、色彩ともに際立って見える。まだ飛び立てない蝶を、花瓶に挿したバラや、窓辺に咲くハイビスカスの花の上に乗せて撮影を続けた。
やがて羽が乾いた蝶は、部屋の中を自在に飛び回り始める。それでもカメラを向けると、じっとして動かず、モデルとしての役割を心得ているかのようだ。
撮影が一段落すると、窓を開けて蝶をバルコニーに放つ。一気に空に向かって飛んでいくもの、バルコニーで終日過ごしてからおもむろに飛び去るものなど、さまざまだ。こうして8匹の幼虫すべてを蝶にして、無事飛び立たせることができた。
幼虫から蛹、羽化へ
レモンの木で見つけた幼虫は、5~15mmほどの大きさで、茶色と白のまだら模様をしている。まさに鳥のフンにそっくり。身を守るための擬態だろう。葉と一緒に箱に移し、毎日新鮮なレモンの葉を与え続けた。
数日経つと、それが緑色の幼虫と化し、食欲も旺盛になる。時にはバリバリと音を立てて葉を食するのだ。
幼虫が3~4cmになると、やがて蛹になる。せわしなく動き回り、自分の居場所を探し始めるのが合図。糸を吐き、箱の壁面に自らを固定し、徐々に蛹となっていく。さらに緑色の蛹が黒色に変わると、たいていは翌朝に羽化となる。
羽化する瞬間に立ち会えたのは、1回だけだった。蛹の上部が割れ、頭が見えたと思ったら、黒い液体の中から羽がするりと抜け出した。一瞬の出来事。3cmに満たない蛹から、羽を広げると10cmほどになる蝶が誕生したのは驚きだった。
虫愛づる姫君
幼虫の最後の1匹が蛹になるまで約1カ月間、レモンの葉を運び、箱にたまったフンの掃除をしていると、なんだか奇妙な感覚に捕らわれた。昔読んだ「虫愛づる姫君」の世界に迷い込んだ気分だ。確か平安時代後期の短編集『堤中納言物語』の中の一編。虫好きの姫という部分しか記憶になかったが、改めて紐解いてみると、なかなかに面白い。
「人は花よ、蝶よと、きれいなものばかり愛でるけれど、誠実な心で物事の本質を探ることこそ、心の様子も趣があるのだ」と、たくさんの虫を集め、成長ぶりを観察する。
また、当時の貴族の娘のたしなみである眉毛を抜くことや、お歯黒にすることもせず、「人は繕わず、ありのままがいい」と言い放つ。さらに周囲の者が世間体を気にすると、「突きつめれば何も恥ずかしいことはない。誰が永遠に生きて、物の善悪を見定められようか」と、時代とともに価値観が変化することを言い当てる。
千年以上も前に書かれた物語だが、現代に生きる女性にも通ずるメッセージが随所に散りばめられている。それは新たな発見だった。
風の谷のナウシカ
「虫愛づる姫君」はまた、宮崎駿によるアニメーション映画『風の谷のナウシカ』の主人公のモチーフになった人物だという。人と自然の歩むべき道を求める少女ナウシカ。優れた観察眼を持ち、独自のものの見方を貫くその姿勢は、虫愛づる姫君と共通のものだ。ナウシカは「私、生きるの好きよ。光も愛も人も虫も、大好きだもの」と語る。
宮崎監督みずから原作本の中で「私の中でナウシカと虫愛づる姫君はいつしか、同一人物になってしまっていた」と述べている。文明社会が戦争によって滅んだ千年後の地球を舞台にした物語。それもまた、今を生きる私たちへの大いなるメッセージに他ならない。
帰ってきたアゲハチョウ
最初に生まれた蝶が飛び立った翌日、バルコニーでバラの水やりをしていると、どこからともなくアゲハチョウが舞い降りてきた。私の頭上を一巡すると、また飛び去った。以来、連日バルコニーに数羽の蝶が訪れるようになった。偶然の出来事かとも思ったが、特徴のある羽の持ち主を見た時、それは確信に変わった。彼らは、生まれたバルコニーに戻ってきたのだ。
ある時はカップルで訪れ、パンジーの花の上で交尾を行った。これもまた一瞬の出来事だった。6月から7月にかけてのバルコニーは、バラの二番花の季節。少しずつ花開くバラの隣で、また新しい生命の誕生が見られるかもしれない。
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Credit
写真&文 / 松本路子 - 写真家/エッセイスト -
まつもと・みちこ/世界各地のアーティストの肖像を中心とする写真集『Portraits 女性アーティストの肖像』などのほか、『晴れたらバラ日和』『ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅』『日本のバラ』『東京 桜100花』などのフォト&エッセイ集を出版。バルコニーでの庭仕事のほか、各地の庭巡りを楽しんでいる。2024年、造形作家ニキ・ド・サンファルのアートフィルム『Viva Niki タロット・ガーデンへの道』を監督・制作し、9月下旬より東京「シネスイッチ銀座」他で上映中。『秘密のバルコニーガーデン 12カ月の愉しみ方・育て方』(KADOKAWA刊)好評発売中。
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