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【ピエール・ドゥ・ロンサール】バラの名前の物語

【ピエール・ドゥ・ロンサール】バラの名前の物語

たくさんの系統と品種があるバラ。4万とも10万ともいわれる、その一つひとつの名前の中には、時に優雅で、時にはロマンチックな物語があります。バラの名に秘められた魅惑の物語の世界にご案内しましょう。
今回ご紹介するのは、‘ピエール・ドゥ・ロンサール’。にじむようなピンク色が麗しいフランスのバラです。

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バラの香りは語る、はかなく散った恋の思い出を。
バラの花びらは語る、
傷ついた心への慰めと癒しの言葉を。
そしてバラの名前は語る、秘められた意外な物語を。
さあ、そんなバラの物語の世界へ──。

‘ピエール・ドゥ・ロンサール’が咲く藤沢邸のローズガーデン

藤沢勘兵衛さんは、研究学園都市として知られる茨城県つくば市の元市長さん。市長在任時代、外国人の学者・研究者夫妻の訪問や滞在も多いつくば市に公営のバラ園をつくってはどうかと提案したが、市議会の理解と同意が得られなかった。

そこで、それならひとつ自分がと自宅にバラ園を開設。今では、さまざまな品種が開花する5〜6月はもちろん、秋バラの時期にもたくさんの人が訪れる関東地方有数のバラ園になっている。

その藤沢邸ローズガーデンの一角に、ひときわ力強く枝を伸ばし、大輪の見事な花を咲かせるバラがある。つるバラの人気品種‘ピエール・ドゥ・ロンサール’だ。

ピエール・ド・ロンサールは、バラと恋と田園を歌った16世紀フランスの抒情詩人。では、いったいどんな人だったのだろう?

麗しき少女カッサンドル

フランス中部の美しい渓谷を流れるロワール川──。

そのほとりに立つブロワ城で、1545年4月21日、王家主催の舞踏会が開かれた。出席したのは、国王フランソワ1世とその王太子アンリ、アンリの妃でイタリアのフィレンツェから嫁いできたカトリーヌ・ド・メディシス、そのほか大勢の貴族とその奥方や令嬢たち。

ゆったりとした二拍子の曲や、三拍子の陽気な曲が繰り返し踊られ、飲み物を口にしてひと息入れたところで、名家の娘のカッサンドルという15歳の少女が登場。きれいなソプラノで、そのころ愛好されていたシャンソンを歌い始めた。

舞踏会に出席していた20歳のピエール・ド・ロンサールは、カッサンドルの愛らしさにたちまち心を奪われた。褐色の髪、バラ色の頬と唇、聴覚に障害のある彼の耳にもはっきりと響く澄んだ清らかな歌声。ロンサールは恍惚となりながら、女性に恋する歓びを初めて知った。

だが、残念なことに彼はすでに剃髪し、僧籍に入っている身。カッサンドルとの結婚など望むべくもないし、愛を打ち明けることすら叶わない。

翌年、衝撃的な知らせがロンサールのもとに届いた。カッサンドルが彼と同郷の貴族と結婚したというのだった。

だが、彼女への想いを断ち切ることなど、どうしてできようか。ひそかに詩人として立つことを決意していたロンサールは、カッサンドルへの恋をうたった詩を次々に書き始める。そしてフランスの抒情詩に新しい調べをもたらし、やがては「詩の王」と称えられる大詩人へと成長していく。

障害を乗り越えて

ピエール・ド・ロンサールは1524年、ロワール川の近くに領地を持つ貴族の家に生まれた。少年の頃から宮廷に仕え、時には外国に赴任する大使の随員となってフランドルやスコットランド、ロンドンなどに滞在。王家の人々と大貴族に可愛がられていたが、16歳のとき、ドイツから帰郷した直後に高熱を発し、病床に。しばらくして回復はしたものの、重い後遺症として聴覚の障害が残った。

外交官や軍人になる道は諦めなければならなかった。だが、耳が聞こえにくくなった分、感覚はより鋭くなり、周囲の自然への愛や観察眼も深まった。

ロンサールは1550年、最初の詩集を出版。続いてカッサンドルへの切ない想いをうたった作品を多数含む2冊目の詩集を出版し、フランスの抒情詩の改革者としての地位を確立する。

ロンサールの勝利

国王はフランソワ1世からアンリ2世に代わっていた。ロンサールはその宮廷に迎え入れられ、リュートを弾きながら自作の詩を歌ったり、朗誦したりするようになる。

彼の最大の敵は、古臭い美辞麗句を並べただけの詩をつくっている守旧派の宮廷詩人たちだった。その一番のボスは、メラン・ド・サン=ジュレ。ある日、メランはロンサールの詩集を手に取り、馬鹿にする目的で、ひどく大げさで滑稽な朗読を始めた。ところが、それを見ていた国王の妹マルグリットが、メランの手から詩集を奪い取り、よく透る静かな声でロンサールの詩の本来の美しさが伝わる朗読を始めた。その朗読が終わったとき、ルーブル宮殿の大広間は嵐のような拍手に包まれた。ロンサールの詩の素晴らしさが、多くの人に認められた瞬間だった。マルグリットはロンサールを「当代随一の詩人」と賞賛し、彼の強力な庇護者の一人になっていく。

ピエール・ド・ロンサールが埋葬されているサン・コム修道院。

悲惨な時代だからこそ

だが、当時のフランスは旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)の対立が激しく、同じキリスト教徒でありながら血みどろの抗争を繰り広げている凄惨な時代だった。両派の融和をはかる試みも行われたが、ことごとく失敗。1562年3月には、フランス東部のヴァシーという町でプロテスタント教徒が多数虐殺される事件が起き、フランスは以後40年近くにわたって続く宗教戦争に突入する。

最大の惨禍は、1572年8月、パリで聖バルテルミの祝日にあたる日から始まったプロテスタント教徒の大虐殺だった。虐殺は地方の各都市へと飛び火し、このときフランス全土で1万人以上のプロテスタント教徒が犠牲になったといわれている。

そんな時代にあって、ロンサールはバラと恋と田園を歌い続けた。というのも、時代が悲劇的で、悲惨であればあるほど、愛や恋はかけがえのないものとなり、バラをはじめとする花々や田園もまた、より一層美しく、より一層愛おしいものと感じられたからだ。

報われなかった恋

ロンサールがカッサンドルのほかに恋した女性としては、可憐な田舎娘のマリーと、カトリーヌ・ド・メディシスの侍女エレーヌの2人が知られている。

ロンサールは1585年12月、「私はあれほどたくさん恋をうたったのに、何ひとつ得るところがなかった」と嘆きながら、61歳でこの世を去った。

彼の青春の思い出の城、カッサンドルと出会ったロワール河畔のブロワ城は、その後、血塗られた惨劇の舞台となった。1588年12月の雪の朝、聖バルテルミの大虐殺の首謀者で、王位への野心を露わにし始めていたカトリック保守超強硬派のアンリ・ド・ギーズ公が国王アンリ3世の密命をうけた刺客によって暗殺される。翌日にはアンリの弟のルイ・ド・ギーズもブロワ城内で暗殺された。そして翌年の夏、アンリ3世もまたカトリックの修道士によって暗殺される。

ロンサールが墓の下で永遠の眠りにつき、そんなおぞましい出来事を知らずに済んだのは、せめてもの救いだったといえるだろう。

悲劇の女王も口ずさんだ詩

ロンサールは死後200年間、ほぼ完全に忘れ去られていたが、19世紀になって再評価の機運が高まり、その詩は学校の教科書にも載るようになる。とりわけ有名なのは──

恋人よ
見に行こう
あのバラを……

というカッサンドルへの恋をうたった詩で、これはロンサールの生前から非常に人気の高かった作品。国王フランソワ2世の妃でスコットランド女王だったメアリー・スチュワートは、イングランドのエリザベス女王に捕らえられ処刑されてしまうが、幽閉されている間、ロンサールのこの詩を口ずさんでフランスで暮らした若き日を懐かしんでいたという。

また、ブロワ城で惨死したあのアンリ・ド・ギーズ公も、暗殺者が待ちかまえている部屋に入っていく直前まで、楽しげにこの詩を口ずさんでいたといわれている。

Photo/MOTOKO/Shutterstock.com

世界中で愛されているバラ

つるバラ‘ピエール・ドゥ・ロンサール(ピエールドロンサール)’は、フランスのナーセリー、メイアン社のマリー・ルイーズ・メイアンが1988年に作出。花の中心部のピンクから外側の白へのグラデーションが美しく、オールドローズを思わせるかわいい花は、バラの初心者が一目惚れする人気品種に。蕾もころんと丸く愛らしい。2006年、世界バラ会議の決定により、バラの殿堂入りを果たした。

基本的には一季咲きだが、株が大きくなると返り咲くこともある。花径は約12㎝。ダマスク系の微香があり、花もちがよい。生育が旺盛で、つるをよく伸ばすので、育て方は、フェンスやパーゴラに絡ませたり、大型のオベリスク仕立てにするのもよい。苗はバラの販売専門店で購入し、地植えをおすすめするが、大きめの鉢でも栽培は可能。春の花後(開花後)は花がらを摘み、定期的に肥料を施し、冬は姿を整えるために剪定と誘引をする必要がある。バラの病気の中でも一番厄介なのが、黒星病(黒点病)。発生したら以下の記事を参考に防除するとよい。

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Credit

文/岡崎英生(文筆家・園芸家)

写真/3and garden

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