人はいにしえより、花の香りを愛し、花の香りとともに暮らしてきた。その花の香りのエッセンスを巧みにブレンドした魔法の水。それが「香水」──。
ブレンドの処方を考えるのは「調香師」という香りの芸術家で、香水の歴史は優れた調香師を綺羅星のごとく輩出してきた。20世紀最高の調香師と称えられたエドモン・ルドニツカもその一人。
今回は、彼がかつて世に送り出した伝説的な「名香」の物語──。
調香師の恋
第2次世界大戦が始まって2年目の1940年──。
フランスはナチス・ドイツに敗れ、首都パリを含む国土の約半分が占領下に入った。
だが、たとえ戦時下であろうと、占領下であろうと、人は恋をする。調香師のエドモン・ルドニツカもそうだった。
彼は大手香料会社レール製作所の調香部門に勤務し、香水の創作を行う一方、業界の専門誌に高度な技術論文を発表したりしていたが、レール社の薬品部門に化学が専門のテレーズ・デルヴォーという女性がいた。
エドモンとテレーズは互いに惹かれ合い、会社の近くの森を散歩したり、ドイツ兵がうろつくパリ市内で書店めぐりをしたりしながら愛を深め、やがて結ばれた。
「運命の女」の香り

テレーズと幸せな日々を過ごしていたある日、レール社のエドモンのオフィスにファッションデザイナーのマルセル・ロシャスが訪ねてきた。
ロシャスはこのとき、男を恋の虜にし、時にはその人生を狂わせてしまうこともある「ファム・ファタール(運命の女)」を連想させる香水を自分のメゾンから売り出したいと考えていた。
エドモンはちょうど香水の試作品をひとつ完成させたところで、それは彼のかなりの自信作だった。その香りをかいでみて、ロシャスは言った。「これだ、これが私のイメージしていた香りだ!」
こうして1944年12月、後に香水レジェンドのひとつとなる名香『ファム(女)』が、パリ第8区マティニヨン通りのロシャスのブティックで発売された。
まるで前衛音楽のような
それは非常に魅惑的ではあるけれど、複雑な香りの、ロシャス夫人エレーヌに言わせれば「まるで前衛音楽のような」「使うのがとても難しい」香水だった。
だが、パリは4年に及んだナチス・ドイツ軍の占領からようやく解放され、祝祭日的な気分に沸いていた。女性たちは『ファム』のミステリアスな香りに飛びつき、男たちもまた競うように『ファム』を買い求めては意中の女性にプレゼントした。当時、パリの街角や地下鉄の駅は、常に『ファム』の香りに溢れていたといわれている。
美しい小さな村で

第2次世界大戦後の1949年──。
エドモンは妻テレーズと共に南仏プロヴァンス地方のカブリという小さな村に移り住み、自身の調香工房を開いた。
カブリは《香水の都》として名高いグラースから西へ約7km。地中海が見渡せる素晴らしい眺望に惹かれて、多くの作家や芸術家が長期滞在に訪れることで有名な村で、『星の王子さま』の作者サン=テグジュペリの母親も長くこの村で暮らしていた。
エドモンの調香工房の前には、四季折々の花々やハーブが咲き香る広い庭があり、いくつもの小径がつけられていた。エドモンは毎日その庭を散策しながら調香のアイデアを練り、香水の歴史に残る名香を次々に生み出していく。
時代の最先端をいく女たち

1966年──。
エドモンがカブリの工房で調香した『オー・ソヴァージュ』(野生の水)という香水が高級婦人服ブランド、クリスチャン・ディオールから発売された。
折しもこの年、パリのサンジェルマン・デ・プレにあるイヴ・サンローランのブティックでは、彼がデザインした女性のためのパンタロンスーツが飛ぶように売れていた。
ふんわりとしたスカートをはき、しおらしく、なよなよと振る舞う女なんて、もう古い。本来は男のものであるパンツ(パンタロン、ズボン)をはいて、街をさっそうと闊歩する女性。仕事にも恋にも人生についても、はっきりとした自分の意見を持ち、必ずしも男性に対して従順ではない女性。それこそが時代の最先端を行く新しい女だという考え方が生まれていた。
一方、男性の意識にも大きな変化が起き始めていた。旧世代の男たちのように男性優位を振りかざすのではなく、女性にも自分たちと同等の権利や能力を認める男。そして自分もまたいくらかはフェミニンな感性を身につけている男。それが最もクールでカッコいい男だと考えられるようになっていたのだ。
新たなレジェンドの誕生

パンツルックの女性たちが、その斬新なおしゃれの最後の仕上げとして選んだのが、男性用として発売された『オー・ソヴァージュ』の香りだった。女性に理解のあるやさしい男たちも、やはりエドモンが調香した『オー・ソヴァージュ』の香りを選んだ。
かくして『オー・ソヴァージュ』はパリの香水売り上げランキング第1位に躍り出る。そして長年にわたり、その座に君臨し続けることになった。
花の香りの響宴

『オー・ソヴァージュ』で最初に匂うのはベルガモットの甘くすっきりとした香り。続いて、ジャスミンのような香りの合成香料の匂いと、プロヴァンス地方産のラベンダーの匂いが、もつれ合い、絡み合いながら香り立つ。そして最後に、インドやインドネシアを原産地とする多年草ベチバーの根に含まれる芳香成分の匂いが長い時間、持続する。
スイスの香料会社がジャスミンのような香りの合成香料を開発したのは1965年。エドモンは登場してまもないその新素材を、すぐさま調香に用い、傑作香水を創り出したのだった。
妻に捧げる香水
エドモン・ルドニツカは1996年、半世紀近くを過ごしたカブリで91歳の天寿をまっとうし、20世紀最高の調香師としての生涯を終えた。
だが、彼は亡くなる前、長年連れ添ってくれた妻テレーズへの感謝の証である『テレーズの香り』という香水の調香を終えていた。この香水は2003年、彼が遺した処方箋に基づいて、カブリの工房を継承した息子マルセルによって製品化された。
テレーズはその2年後に他界。自分に捧げられた香水の香りに包まれて、夫エドモンの待つ天国へと旅立っていった。
Credit
文/岡崎英生(文筆家、園芸家)
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