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「香水の帝王」と呼ばれた調香師。その波乱と悲運の生涯

「香水の帝王」と呼ばれた調香師。その波乱と悲運の生涯

香水は植物のもつ天然香料を元につくられ、そこに合成香料が加わることで輝かしさや、つややかさが生まれる。その構成を考えるのが調香師。彼らは香りで美しい音楽を作曲する芸術家だ。今回は「香水の帝王」と呼ばれた調香師の物語。幼くして孤児となり、10代の頃は行商人として生活。そんな若者が「香水の帝王」に──。彼はどんな人生を歩んだのか?

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コルシカ島の孤児

フランソワ・コティの生まれ故郷、地中海のコルシカ島アジャクシオ。

フランソワ・コティは1874年5月、地中海のコルシカ島アジャクシオに生まれ、3歳で母親と死別。その数年後には父親が軍隊で上官に反抗するという事件を起こし、失踪。フランソワは祖母と曾祖母に養育される身となった。

この哀れな孤児が、後に世界一の億万長者になると、いったい誰が想像しただろう?

港町マルセイユへ

フランソワ・コティは、本名ジョセフ・マリー・フランソワ・スポチュルノ。

スポチュルノ家は19世紀半ばからオレンジを栽培していた。比較的裕福な暮らしをしているアジャクシオでは中流の家庭だったが、フランソワの父親の失踪後は、経済的に次第に困窮。彼の学校生活も学資が続かなくなって中断。祖母は10歳になった少年フランソワを連れて、フランス本土の港町マルセイユに移った。

行商人としての日々

レースの行商人として多くの女性に接した経験が、後の事業の成功につながっていく。

フランソワはマルセイユで、祖母との生活を支えるために、婦人用のリボンやレース、リネンなどを売り歩く行商人となった。

この時期に彼は、女性に物を売るコツ、女性が取り澄ました顔をしていながら、実はその心のうちにどんな欲望を秘めているかを素早く見抜くコツを身につけた。

幸運のきっかけ

1893年、19歳となったフランソワは軍隊に召集され、故郷のコルシカ島アジャクシオへ。そこで5年間の兵役生活を送り、24歳で除隊。

それから間もなく、軍隊時代の上官で、スポチュルノ家の古い友人でもあったエマニュエル・アレーヌがコルシカ島選出の上院議員となったのを機に、フランソワは彼の秘書としてパリに同行することになった。

恋と結婚

エマニュエル・アレーヌの秘書とはいうものの、実際には無給。名刺に「議員随行員」という肩書きを印刷することを許されているだけだったので、フランソワは自活するために再び行商人となった。

彼は女性用のアクセサリー類を入れた鞄を持って、パリの街をあちらからこちらへと訪問販売をして歩いた。

そんなある日、フランソワは17歳のイヴォンヌ・アレクサンドリーヌと出会う。イヴォンヌはデパートの婦人用帽子売場で働いている可愛らしい娘だった。

2人は1900年6月に結婚。証人として挙式に立ち合ってくれた薬局店主レイモン・ゴエリー夫妻と親しく交際しながら新婚生活を送り始める。

香水の都での調香師修業

香水の都、グラースのラベンダー畑。

フランソワが香りに対する優れた感性の持ち主であることに気づいたのは、薬品販売のかたわら、香水の調合も行っていたレイモン・ゴエリーだった。彼はフランソワに「香水の都」として名高い南仏のグラースに行って学び、調香師になるように勧める。

フランソワは妻のイヴォンヌをパリに残して、グラースに出発。名門香料会社シリス社で1年間修業し、香料やエッセンシャルオイルについての知識と、そのさまざまな処方を習得した。

母のミドルネーム「コティ」

フランスの老舗総合美容薬局「 オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー(OFFICINE UNIVERSELLE BULY)」。

パリに戻ったフランソワは、グラース産の香水を市内の理髪店に卸売りするという事業を始める。その一方で自分独自の香水の調香にも取り組んだが、買い手はまったく見つからなかった。

というのも、当時フランス国内には、すでに大小約300もの香水会社があり、その中には100年以上の歴史を持つ老舗や、ヨーロッパ各国の王室御用達香水商となっている超一流の会社もあったからだ。

苦闘しているフランソワに、ある日、彼の庇護者を自認しているアレーヌ議員が言った。

「スポチュルノという君の名前は、あまりにもコルシカ風だし、香水商としては響きが悪い。君のお母さんの名前を使わせてもらったらどうかね?」

この助言を容れ、フランソワは25歳の若さで亡くなった母アンヌのミドルネーム「コティ」を名乗るようになった。

最初の香水

コティの香水の名の由来となったオールドローズ‘ジェネラル・ジャックミノー’。ジャックミノーとはナポレオン戦争時の名将。

1904年、フランソワは事実上のデビュー作である香水『ラ・ローズ・ジャックミノ』を創作。アレーヌ議員の人脈の力を借りて、パリの大百貨店「ルーブル」に香水を置いてもらうことに成功する。

この時、彼は大胆な宣伝戦略に打って出た。キャップを取った『ラ・ローズ・ジャックミノ』のボトルを、売場の床に叩きつけたのだ。

たちまちフロア中に広がった、甘く、かぐわしい芳香──。

婦人客たちがすぐに駆けつけてきて、フランソワに口々に尋ねた。

「それは何という香水?」

「いくらで買えるの?」

その様子を見ていた百貨店「ルーブル」の総支配人は、『ラ・ローズ・ジャックミノ』の追加分を明日中に届けるようにとフランソワに命じた。彼の宣伝戦略はまんまと成功したのだった。

託児所と有給休暇、退職金

香水『ラ・ローズ・ジャックミノ』で巨富を築いたフランソワは、一流のショップが軒を連ねるヴァンドーム広場にブティックを開設する。

そして、新作香水を相次いで発売。香水をはじめ、ボトルやパッケージなどの製造工場をパリ郊外に設立して、商品を一貫生産するシステムを確立する。

かつてのコルシカ島の孤児は、工場で働く労働者たちにやさしかった。どの工場にも託児所を設け、年に何日かの有給休暇を保証。工場を辞める社員には退職金を支給するようにしたのだ。

栄光と享楽の果てに

香水で巨万の富を築いたフランソワ・コティ。

1914年、第一次世界大戦が始まった頃には、フランソワの会社は香水業界で売上高トップとなり、ロンドン、ニューヨーク、モスクワ、南米のブエノスアイレスにまで支店網を広げていた。

1920年、フランソワの総資産は累計1億フランに到達。当時としては文字通り世界一の大金持ちであり、彼は「香水の帝王」と呼ばれるようになった。

だが、この頃から彼の性格の「負」の部分が現れ始める。何人もの愛人をつくって享楽的な生活を送る一方、17〜18世紀に建てられたフランス国内の古城や由緒ある館、新聞社、ホテルなどを次から次へと買い漁っては、愛人たちに分け与えるようになったのだ。

香水商となり、まだ家内工業的に製品を生産していた頃、献身的に協力してくれた妻イヴォンヌとは、1929年、高額の慰謝料を払って離婚。彼の栄光の終わりは、まさにその年にやってきた。

帝国の崩壊

1929年10月、ニューヨーク株式市場で株価が大暴落。世界恐慌が始まった。その影響で、フランソワの財産は大部分が債権者たちによって差し押さえられてしまい、彼は「香水の帝王」の座から転落した。

失意のフランソワを、あたたかく迎えてくれたのは、故郷のコルシカ島アジャクシオの人々だった。彼は1931年、アジャクシオの市長に就任。在任中の34年7月、60歳で他界した。

偉大な功績

現代版のロリガン(オーデコロン)。

フランソワ・コティは、現代香水の黎明期に彗星のように現れた天才的な調香師だった。彼が香水の世界に残した大きな功績は3つある。

ひとつは、伝統にこだわる調香師たちが使おうとしなかった合成香料を積極的に用い、香水に「シプレー調」という新しい香調をつくり出したこと。ふたつ目は、著名な装飾芸術家ルネ・ラリックにボトルのデザインを依頼し、香水瓶を美しく気品溢れる芸術の域まで高めたこと。そして最後は、一部の特権階級だけのものだった香水の低価格化に努め、誰でも買えるようにしたことだ。

1909年にラリックがデザインしたボトルに入れられて発売された香水『ロリガン』はコティの代表作のひとつ。ハーブのオレガノの匂いを効かせた東洋調の香りで人気を博した。

2人の帝王

陸軍の一将校として動乱の時代を生き、フランス皇帝となったナポレオン・ボナパルトはコルシカ島の出身。この島が生んだもう一人の「帝王」が、フランソワ・コティだ。

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Credit

文/岡崎英生(文筆家、園芸家)

Photo/2) Evannovostro/ 4) Marina VN/ 5) EQRoy/Shutterstock.com

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