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バラの物語・つるバラの名花‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’

バラの物語・つるバラの名花‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’

情熱的すぎるともいわれる演奏で聴衆を酔わせ、恍惚とさせた天才的な女流チェロ奏者。若くして世を去った彼女は、甘く香る美しいバラの花として生まれ変わった──。つるバラの名花ジャクリーヌ・デュ・プレの物語。

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熱狂的な喝采の陰で

1973年1月──。

ニューヨークでの公演は大成功だった。ジャクリーヌ・デュ・プレは何度もステージと楽屋を往復し、客席からの熱烈な拍手と「ブラボー!」という歓呼の声に応えた。

英国が生んだ天才的なチェロ奏者。クラシック音楽界のスーパースターとして華やかなキャリアを重ねてきた彼女が、まもなく演奏家生命を断たれることになると、このとき果たして誰が予想したことだろう。

ジャクリーヌは一抹の不安が胸をよぎるのを感じていたかもしれないが、しかしまだ希望は捨てていなかったに違いない。

耳の肥えたニューヨークの音楽評論家や音楽雑誌の編集者たちは、ジャクリーヌの異変に気づいていた。

──演奏にかつてのような輝きがない。というより、今日の出来はちょっとひどすぎる。いったい、どうしたのだろう?

幻の日本公演

折しも、日本ではそのころ、ジャクリーヌの来日公演の多彩な演目が発表され、音楽ファンを興奮させていた。

NHK交響楽団や、同じ時期に来日する英国の室内管弦楽団との共演、世界的なヴァイオリニストらとの室内楽の一夜、そしてジャクリーヌが独奏をたっぷり聴かせるチェロ・ソナタの夕べ──。

実に充実したラインナップで、もしこれがこの年4月に予定通り行われていれば、おそらく後々まで語り草となるような演奏会になっていたことだろう。

悲しい東京滞在

だが、1973年4月初め、ジャクリーヌの来日中止が発表された。

公演は4月10日のN響の演奏会に始まり、順次予定通りに行われたが、演目と演奏者は大幅に変更されていた。日本のファンが、生の演奏をぜひ聴いてみたいと熱望していたジャクリーヌは、ついに一度も聴衆の前に姿を見せなかった。

だが、彼女は実はひそかに来日していた。

夫のピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムが演奏している間は楽屋でじっと待ち続け、およそ2時間後、演奏会が終わると夫とともにタクシーで宿泊先のホテルへと引き上げる……。

ジャクリーヌは東京でそんな数日間を送り、やがてひっそりと英国に帰っていった。

引退、そして伝説の人に

その年の10月──。

ジャクリーヌはロンドンの病院で「多発性硬化症」と診断された。

視覚障害、感覚障害、運動麻痺などの神経症状が繰り返し起きる中枢神経系の難病である。何らかの免疫不全によるのではないかといわれているが、原因は不明。根治も難しいとされている。

ジャクリーヌは引退を余儀なくされた。この年2月にロンドンでエルガーの協奏曲を弾いたのが、聴衆の前での最後の演奏だった。彼女はもはや二度とステージに立つことはなく、クラシック音楽の世界を彗星のように駆け抜けた伝説の人となった。

ジャクリーヌはまだ28歳だった。

天才少女現る

ジャクリーヌ・デュ・プレは1945年、英国イングランドのオックスフォードに生まれた。父は銀行員、母親のアイリスは王立音楽院で学んだプロのピアニストだった。

「あれは何の音?」

ラジオから流れるチェロの音楽を聞いて、ジャクリーヌが母親のアイリスにそう尋ねたのは4歳のときだったという。アイリスはすぐに絵入りの教材をつくって、娘に音楽の基礎を教え始め、5歳になるとロンドンのチェロ・スクールに入学させた。

ジャクリーヌはその後、めきめきと腕を上げ、フルート奏者になっていた姉のヒラリーとともに、さまざまなコンクールに出場しては優勝をさらうようになっていく。

1959年、14歳のときにはBBCテレビに出演して演奏を披露。その翌月には早くもハイドンのチェロ協奏曲のレコーディングを行い、天才少女として一躍有名になった。

華麗な音楽家人生

ロンドンでリサイタルを開き、ソリストとしてデビューしたのは16歳のとき。その翌年にはBBC交響楽団と共演して大好評を博し、ベルリンやパリからの招きをうけて演奏旅行に出かけるようになっていく。

1965年には、最も得意としていたエルガーのチェロ協奏曲を名指揮者ジョン・バルビローリとロンドン交響楽団の演奏で録音。このレコードは大ヒットし、ジャクリーヌの人気と名声は国際的なものとなった。

21歳で結婚

1966年、21歳になったジャクリーヌは、クリスマス・イヴの夜にアルゼンチン出身のピアニスト、ダニエル・バレンボイムと出会った。

当時24歳のバレンボイムはジャクリーヌよりずっと背が低かったが、全身からきらめくような才気が溢れ出ていた。ジャクリーヌはたちまち彼と恋に落ち、結婚した。

この結婚はクラシック音楽界におけるビッグカップルの誕生として大きな話題となった。以後、演奏会での二人の共演やレコーディングの機会が急速に増えていく。今日残されているジャクリーヌの十数枚のCDも、ほとんどが夫バレンボイムと録音した1960年代のものだ。

悲劇的な死

ジャクリーヌが指先に異常を感じ始めたのは1971年の初めだった。

だが、ニューヨーク公演と日本での公演の予定はすでに決まっていた。不調をおして出かけたニューヨークで、彼女はその才能をよく知る人々が思わず耳を疑うような演奏を披露してしまう。

病状は日を追うにつれて、次第に悪化。日本公演は中止となった。

バレンボイムとの結婚生活も崩壊した。

彼はある有名なヴァイオリニストの前妻と愛人関係になり、パリで同棲。ジャクリーヌが死の床に就こうとしていたころには、愛人との間に2人の子どもまでもうけていた。

1987年10月、ジャクリーヌは42歳で亡くなった。

翌1988年、バレンボイムは愛人と正式に結婚した。

つるバラの名花の誕生

ハークネス社は19世紀の末に創業した英国の名門老舗ナーセリー。

同社はジャクリーヌが亡くなった翌年、四季咲き性の白いつるバラを作出。‘ジャクリーヌ・デュ・プレ’と命名した。

半八重の房咲きで、真っ白な花弁に赤い花心のアクセントが愛らしく、ムスク系の甘い芳香もあるこのバラ。大輪ながら楚々とした風情があり、クラシック音楽の世界の名花と歌われたジャクリーヌの、まさに生まれ変わりのようだ。

春は早く咲き、秋にもたくさんの花をつけるのも魅力的。ただし、花もちはあまりよくなく、散りやすい。そんなところも、いかにも夭折したジャクリーヌのよう。

枝は伸ばすと2.5mにもなるので、トレリスやアーチに誘引するのに向いている。

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Credit

文/岡崎英生(文筆家、園芸家)

Photo/1&7) Monika Pa/ 2) Olga und Goran Skrtic/ 3) Andrii Yalanskyi/ 5) Alenavlad/Shutterstock.com 6) Uleli(CC BY 3.0)

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