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香水の物語・王妃の悲劇と香水の「革命」

香水の物語・王妃の悲劇と香水の「革命」

フランス王妃マリー・アントワネットは、軽やかな花の香りの香水を好んでいた。お気に入りの調香師は、パリのルール通りに店を構えるジャン=ルイ・ファルジョン。
だが、もう一人の人気調香師、ジャン・フランソワ・ウビガンの香水も気になる。
アントワネットは、ある日、侍女をウビガンの店に行かせ、彼の最新作を買わせた。この香水が、やがて彼女を悲劇へと導くことになる──。

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深夜の逃亡

バラを持つマリー・アントワネットの肖像画。Photo/Everett – Art/Shutterstock.com

1791年6月20日の深夜、フランス王妃マリー・アントワネットは夫のルイ16世や子どもたちと革命の嵐が吹き荒れるパリを脱出した。

疾走する馬車の手綱を握っているのは、スウェーデン貴族のハンス・フェルゼン。アントワネットの愛人という噂のある人物だった。

失敗、身柄拘束

彼らは普段よりずっと質素な身なりをして、もし途中で身分を問われたら、ロシアのさる公爵夫人の侍女と従僕の一家だと答えることに決めていた。

通過するいくつかの町では、その嘘で何とか乗り切った。だが、脱出から2日後の6月22日、一行はドイツ国境付近の町で身柄を拘束され、チュイルリー宮殿へと連れ戻されてしまう。

ウビガンの高級香水

クリスマスに王妃に贈られたとされる香水。香水瓶の入ったブック型の革のケースは18世紀のバロック様式でつくられている。

身分発覚の手がかりの一つとなったのは、アントワネットの衣装ケースから出てきた香水だった。それはパリで最も人気の高い調香師、ジャン・フランソワ・ウビガンの作品で、侍女や従僕といった使用人階級にはとても手が出せない高級品だった。

かくしてパリからの逃亡は失敗に帰し、2年後の1793年10月16日、アントワネットはコンコルド広場で断頭台の露と消える。

ジャン・フランソワ・ウビガンはその日からフォーブール・サントノレ通り19番地にある店を閉じ、自分の香水を愛してくれた王妃を偲びながら喪に服す日々を送った。

激動の時代の香水商

合成香料を香水に初めて用いた調香師、ポール・パルケ。

フランスの社会はその後、革命政権の崩壊、皇帝ナポレオンによる独裁と彼の失脚、王政復古、7月革命、2月革命と、およそ半世紀にわたって激動を繰り返していく。

ウビガンの香水店はその混乱と変転の時代を生き抜き、経営は創業者のジャン・フランソワから息子のアルマン・ギュスターブへ、さらに主任調香師のポール・パルケへと受け継がれた。

合成香料の発見

ウビガンはこのパルケの時代に皇帝ナポレオン3世の妃ユージェニーの愛顧をうけるようになり、英国王室御用達の香水商にも選ばれる。

当時は合成香料の黎明期。その発展の糸口となったのは、英国の化学者ウィリアム・ヘンリー・パーキンによる発見で、彼は1868年、南米原産の香りのいい豆から、干し草のような匂いがする「クマリン」という香り成分を分離することに成功した。

次いで1876年には、まるでバニラのような匂いのする「バニリン」という香り成分が発見される。

だが、この時代の調香師たちは、誰一人として、発見された新しい香りを調香に用いようとはしなかった。彼らには、合成香料に対して「所詮は天然香料の紛い物」という偏見が根強くあったのである。

香水の革命

合成香料を用いて初めてつくられた香水『フージェール・ロワイヤル』。フージェールとはシダのこと。

その合成香料を初めて香水に用いたのが、ウビガンの経営を引き継いだ調香師、ポール・パルケだった。

彼は1882年、ラベンダーやゼラニウムなどの天然香料に「クマリン」を配合した香水『フージェール・ロワイヤル』を発表する。

それに遅れること7年後の1889年には、香水商の名門として知られるゲラン家の2代目調香師、エメ・ゲランが「バニリン」を用いた傑作香水『ジッキー』を発表した。

この2人の革命的な試みが、他の調香師たちの偏見を打ち砕くことになった。

──合成香料を使うことにより、香水の香りは、より華やかに、そして香りの持続時間も長くなる。

ポール・パルケとエメ・ゲランの作品に触れて、調香師たちはようやくそう認識するようになった。

こうして香水は天然香料だけで、花の香りだけでつくるものという時代は終わり、合成香料を調香に巧みに生かす現代香水の歴史が始まってゆく。

世界的企業へ

1918年頃のウビガンの広告。

ポール・パルケは天才的な調香師であると同時に、すぐれた実業家でもあった。

彼はウビガンの経営を任されると、工場をパリ北西のヌイイ・シュル・セーヌに移し、人員を増強して事業部門を拡大。米ニューヨークに支店を出したのを皮切りに、英国、イタリア、スペイン、ベルギー、オランダ、ルーマニア、ポーランドにも出店。さらには南米、中国、そして日本へと販売網を広げ、ウビガンを世界的なフレグランス・メゾンへと育て上げた。

莫大な遺産の行方

パルケは香水の世界への偉大な貢献により、フランスの文化功労者に与えられるレジヨン・ドヌール勲章を受賞。第一次世界大戦中の1916年、60歳で他界した。

そして、莫大な遺産が残された。

未亡人となったパルケ夫人は、その遺産をどうすべきかを考え続けていたが、パルケの死から7年を経た1923年になって、ついに一つの結論に達した。

──香りは人に癒しと慰めを、そして歓びをもたらす。その香りによって築かれた富は、やはり人を癒し、慰めるために使われるべきではないだろうか?

そう考えた夫人は、遺産のほとんどをウビガンの工場があるヌイイ・シュル・セーヌの母子保健局に寄贈。彼女が一流の建築家に依頼して建てさせた煉瓦造りの美しい建物はヌイイの小児医療センターとして使われることになった。

それから、すでに90年あまり──。

ポール・パルケ財団病院は、現在も発達障害や慢性病を抱える0歳から6歳までの子どもたちを受け入れ、高度なケアを行っており、パリ周辺地域の重要な病院の一つとして高い評価をうけている。

花の香りから新しい香りへ

『パコ・ラバンヌ・プール・オム』

マリー・アントワネットの衣装ケースの中から見つかった香水──。

それは一体、どんな香りの香水だったのだろうか? 残念ながら、ジャン・フランソワ・ウビガンによるアコード(処方)は伝わっていない。

だが、いずれにしてもそれは合成香料が発見される以前のものであり、バラやジャスミンやラベンダーなどの甘い香りがほのかに感じられる香水であったろうと想像される。

一方、ポール・パルケが合成香料「クマリン」を調香に用いた香水『フージェール・ロワイヤル』は、大ヒット商品となり、多くの模倣品を生みながら第二次世界大戦が始まる頃まで60年以上にわたって売れ続けた。

今日、このタイプの香水としては『ブリュット』(未開人)、『パコ・ラバンヌ・プール・オム』(パコ・ラバンヌ男性用)などが知られている。

Credit

文/岡崎英生(文筆家、園芸家)

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