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【牧野植物園広報部インタビュー】愛されキャラの牧野富太郎と博士の思いをつなぐ牧野植物園の未来

【牧野植物園広報部インタビュー】愛されキャラの牧野富太郎と博士の思いをつなぐ牧野植物園の未来

NHKの連続テレビ小説化記念・牧野植物園企画第3弾は、牧野富太郎と牧野植物園を知り尽くす広報課の橋本さんに、ここでしか聞けない牧野富太郎の秘話と、牧野植物園のあれやこれを伺ってきました。すでにドラマを視聴されている方も、これからNHKオンデマンドでまとめて見る方も、要チェックです!

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牧野植物園について

牧野植物園には、県内のほとんどの人が、子どもの頃に遠足で来たとおっしゃるんですよ

ガーデンストーリー編集部(以下GS):植物園のある五台山は、牧野富太郎博士が何度か植物採集に訪れていたそうですが、そうしたことからこの地が選ばれたのでしょうか?

牧野植物園広報課橋本

橋本:そうですね 牧野博士はここに限らず、高知全体をフィールドとして調査に行っています。もちろん、この植物園のある五台山にも何度か植物調査に訪れています。
しかし、ここに植物園の設立が決まったのは、その調査からもっと後の話になります。

園の設立に関しては、明確に博士からの希望があったわけではなく、県民はじめ有志の働きかけによるものだと聞いていますが、牧野博士自身も「植物園」というものの建設の必要性はかねがね明言されていたことが書籍などで確認できます。
計画が具体的になったのは昭和29年で、まず「牧野博士記念植物園設立準備会」ができ、昭和31年に設立が決定しました。

これは推測ですが、おそらくその準備会の中で、いくつか候補地が挙がったのではないでしょうか。地形の調査も行ったようですし。
でも結局は、博士に「どこがいいですか?」と伺ったところ、「それなら五台山がいい!」という鶴の一声で、ここにつくられることが決まりました。

当時のここ五台山は、いくつかの私有地が混在していて、最終的に竹林寺の当時のご住職からご厚意をいただき、お寺の一角であった宿坊(寺院の宿泊施設)と呼ばれるエリアにつくることになったと聞いています。

スモモ
北園の山頂付近に広がる「こんこん山広場」に横たわる2本のスモモの木は私有地時代の名残で、当時は無数のスモモの木が花を咲かせ、山肌を白く染めたそうだ。

GS:植物園の存在は、地元にどのような影響を与えてきたと思いますか?

橋本:当園は地元の方々に親しんでいただいており、来園のお客さま、特に県内の方に「過去に園に来たことありますか?」と尋ねると、多くの方が「子どもの頃に遠足で来た」っておっしゃるんですよ。

今でも小中高と、遠足や課外授業で来られる方も多いのですが、県民の多くの方が幼少期から学生時代に、少なくとも一度は訪れているように思います。

私どももさまざまなイベントを催していますので、大人になってからはそういった催事の話題をきっかけに再訪しようかな、という流れもあるようです。

GS:それは素敵な話ですね。幼少期にこんな素敵な植物園の思い出があるなんて、うらやましいですよ。

橋本:特に高知市内にお住まいの方は、そういった思いが深いのではないでしょうか。また、今回NHKの連続テレビ小説の題材になったことで「我が地元に牧野植物園在り!」と再認識され、再訪される方も多いですね。

GS:地元の方にとっては、今回連続テレビ小説の題材になったことは、これ以上ない誇りでしょうね。

橋本:そう思います。

牧野植物園がきっかけで、さらに植物愛が増してもらえるのは嬉しい

牧野植物園広報課橋本

GS:植物園が日本の園芸文化にもたらした影響についてはいかがでしょうか?

橋本:地元に対してはこのように大きな影響を持つ牧野植物園ですが、日本の園芸文化への影響というところでは、私自身の考えとしては、当園の在り方が、園芸のそれとはちょっと方向性が異なるかなと思います。
しかし牧野博士の研究は、その垣根をまたいでいたものもあるため、人の手によって愛でられ栄えてきた日本の園芸文化と、自然界の植物を分類していく博士の研究とは、少なからず交わる部分もあるとは思います。

GS:確かに、日本の園芸文化というと、例えば変化朝顔とか江戸菊のように、人の手によって改良を重ねられ、美術工芸品のような位置付けで楽しまれる植物が代表的ですね。

橋本:そうですね。もちろん、植物を愛する畏敬の念に隔たりはないのですが、ただ、牧野植物園に来園される方は、どちらかというと園芸植物よりも、山野草や高山植物のような人の手によるものでない野生の植物、ありのままの自然が好きな方が多い印象です。

しかし最近では、蘭が好きな方や多肉植物が好きな方が来園されたりと、割とボーダーレスでお客さまがいらっしゃるようになったと思います。

私たちとしては、きっかけはなんでもいいんです。研究としては線引きがあっても、植物を愛でる気持ちに線引きなどあろうはずもなく、お散歩がてら来ていただくのも嬉しいですし、博士のことを伝記などで読んだり、今回の連続テレビ小説を通じて興味を持たれたり、さまざまなきっかけで牧野植物園に遊びに来ていただければ嬉しいんです。

こうして、今まで植物に興味があった方も、なかったけど持ち始めたという方も、園芸というよりは、もっと大きなところで植物への興味の足掛かりに牧野植物園を使っていただければ嬉しいですね。それにより日本の園芸文化にも、植物を愛する方を一人でも多く生み出す、というフィードバックができるのではないかと思います。

GS:園を散策してみて、植物一つひとつにじつに細かくプレートが立てられていて、いかに博士が植物分類学に心血を注いでいたかがうかがえました。来園者はこのプレートからより深い植物の知識を得ることができ、関心も高まりますよね。そういった意味でも博士の研究と現在の園芸文化とのクロスオーバー的な役割を、この植物園が果たしているのだな、と思います。

薬用植物区
私たちの生活とも関わりの深い植物などが多数植えられた薬用植物区の一部。植えられている全ての植物の側には、その植物の詳細が記されているプレートが立つ。

橋本:当園は自然風植栽を意識しているため、例えばご自身が鉢植えとして楽しまれているものが、自然の中でどのように息づいているかを見ると、よりその植物への愛も増すと思いますし、栽培のヒントにもなったりするのではないでしょうか。

博士自身も園芸文化を決して否定せず、むしろ植物を愛する気持ちに対しては心は一つ、という考えの方だったので、牧野植物園がきっかけで来園者の植物愛がさらに増すというのは嬉しい限りではないかと思います。

GS:ここは場所柄、山に吹き抜ける強風が植物の幹を太くし、強くしていると伺いましたが、言ってみればそれが自然の創り出す造形美であり、植物が健康に育つためには、いかに風が重要かも分かりました。

牧野富太郎博士について

牧野富太郎
<写真提供:高知県立牧野植物園>

研究って一方通行では決して醸成されないもの

GS:牧野富太郎博士は植物について並々ならぬ関心と情熱を持ち、研究や教育普及活動に生涯を捧げた方ですが、同じ道を歩まれている後進の方々から見るとどんな方ですか。

橋本:やはり植物学や植物分類学というものについて、まだ当時(明治〜昭和期)は欧米に遅れをとっていた日本のレベルを世界レベルまで引き上げたのは牧野博士なので、そのレガシーを継承し、同様の研究を進めている専門家たちから見れば、牧野博士はまさに先駆け的な存在です。

また、牧野博士は採集した植物を描いた植物図の分野でも日本では先駆者であり、そのディテールの再現性と息を呑むような美しさには、先進的だったはずの海外の植物学者も驚嘆したといわれています。

植物図
明治11年、牧野富太郎が16歳の時に描いたもの。少年の頃にすでにここまで緻密な植物図を描いていた。

GS:牧野博士は植物分類学の研究を世界水準まで高めたということですが、そもそも当時、日本の植物学は海外から注目はされていたのでしょうか? それとも、謎めいた極東の小国から、牧野博士が積極的に海外に向け情報を発信していて、それが功を奏して海外からも注目を浴びるようになったのですか?

橋本:すでに世界から注目されていたとは思いますが、当時は、文明的、歴史的な背景もあり、情報流通は極端に少なかったと思います。おっしゃるように、未知なことが多い極東の小国から、博士のほうから積極的に発信したのだと思います。そもそも研究って一方通行では決して醸成されないものなので、徐々に情報のネットワークが作られ、レベルも上がり、評価を得た、ということだと思います。

GS:一方通行だった研究を双方通行にして、日本の学術レベルを底上げした博士の功績は偉大ですね。

そもそも、牧野博士が一般常識人であったら植物分類学者牧野富太郎は生まれていなかった

GS:そんなフロンティア精神溢れる博士には、ユニークなエピソードもたくさんありそうですね。

橋本:牧野博士はとにかく、どんなことにも探究心が旺盛で、凝り性だったようですね。
幼少期には、実家の番頭が持つ懐中時計を借りた博士は、その仕組みが知りたくて、借り物にもかかわらず、バラバラに分解してしまったそうなんです。

GS:貸した方はさぞびっくりしたでしょうね・・・。連続テレビ小説でもそのようなシーンが盛り込まれると面白いですね!(実際に放映では、子供時代に番頭さんの懐中時計を分解しちゃったという形で再現された)

橋本:そうですね(笑)、あとは、博士は海外から大量のシリーズ物の書籍を取り寄せたりもしていたんですが、それらも抜け落ちることなく、ちゃんと全巻揃えてコンプリートしていたそうです。
とにかく凝り性だったようですね。凝り性がゆえに、家計が傾いたのですが・・・。

GS:家計を傾ける凝り性のことを「Rock ‘n’ Roller」というんですよ(笑)。独り身ならいざ知らず、妻君のご苦労は察して余りあります。

橋本:全財産を研究に注ぎ込んでしまうわけですから、確かに妻の壽衛さんは大変だったと思います。でも壽衛さんは、お子さんには「お父さんは世界的な研究をしている人だから、我が家は決して裕福ではないけれど、決して恥ずべきことではないんだよ」と言って、最大限の理解を示して家庭を支えていたんです。

そもそも論ですが、牧野博士が一般常識人であったら、植物分類学者牧野富太郎は生まれていなかったのではないかと思います。

牧野夫妻
若き日の牧野富太郎と妻壽衛。<写真提供:高知県立牧野植物園>

GS:ある分野で突出した人は、一般常識が通じない部分が必ずどこかにあると聞きます。まさにそれですね。私の経験則では、そういう人は自己陶酔型が多いですが、牧野博士にはそれが感じられない。

橋本:そうなんです! 博士は大人、子供、老若男女の分け隔てなく、誰にでも同じように接して植物の知識を広めていった方なので、そんなところが多くの人に愛され、愛されるから支援者が現れ、親しみを持たれるからこそ、日本全国から標本が集まり、博士も知識を集積することができたんです。
その結果、現在語り継がれている偉業の数々を成し遂げることができたんです。

GS:細い1本の糸が束になって、太い1本になった、ということですね。

橋本:はい。博士のお人柄のなせる業ではないかと思いますね。

出生の地、佐川町の風土も大きな影響を与えた

GS:14歳のときに小学校を自主退学し、早くも植物研究の道を歩み始めている博士ですが、牧野富太郎博士が若くして植物に強く関心を持つに至ったのはなぜなんでしょうか?

橋本:牧野博士は幼少の頃に両親と祖父を亡くされて、祖母に育てられました。
そんな少年時代に、肉親の愛に代わって心を満たしてくれるものが植物だったと自らも語っています。
つまり、何か1つきっかけがあったというより、常に植物に寄り添い、共に日々を送っていたわけです。

加えて、日本の野生植物の種類の約4割が自生しているともいわれている地元高知の自然の豊かさも大きな影響を与えたのではないでしょうか。10代〜20代前半の頃は、博士はすでに高知県の植物をくまなく調査していました。ですから影響というか、高知の自然こそ、博士の研究の源になったのだと思います。

GS:植物王国土佐の大地を駆け巡るフットワークの軽さもさることながら、そもそも学習意欲も旺盛だったのですね。

橋本:それは間違いないですね。地元でも有数のレベルの高い私塾に通い、そこで読書、天文学や物理学、英語の読み書きを学んでいました。教育に熱心に取り組み、多くの識者を輩出しているこの佐川町の風土も大きな影響を与えたのではないでしょうか。

高知は山を越えるごとに地域の特色も変わるのですが、佐川町は「佐川山分学者あり」(佐川は山も多いが学者も多いという意味)という言葉ができるほど、学問が盛んな町だったため、そのあたりも後年の富太郎を形成する苗床になったはずです。

GS:学問で肥えた土から、まさに黄金の苗が芽生えたわけですね。

橋本:いろんな要素はあると思いますが、やはり牧野富太郎を突き動かしたのは、ひとえに植物への愛ではなかったのかなと思います。

GS:歴史の必然というかなんというか、どれか1つでも欠けていたら、もしかしたら牧野富太郎は生まれなかったのかもしれませんね。

橋本:そうですね、もし両親といわずとも、どちらかの親が存命だったり、他の子どもみたいにちゃんと学校に通っていたり、場所が高知でなかったり、このどこかが異なるだけで、牧野富太郎の人生は私たちが知っているものとは違う歩みになっていたのかもしれません。

今回のドラマをフックにして、牧野富太郎の存在を広く周知したい

GS:ところで、その牧野博士は昨年生誕160年を迎えましたが、博士の存在がクローズアップされている今年2023年、牧野植物園としては博士が日本の園芸に残した足跡、功績をどのように伝えていきたいですか?

橋本:牧野富太郎は、まだ全国的に知名度は低いと思うんですよ。確かにドラマのおかげで知った方も多いとは思いますが、それでもいまだに高知のパブリックイメージは、高知=坂本龍馬、だと思うんです。

我々としては、今回のドラマをフックにして、牧野富太郎という世界レベルの植物分類学者がいたんだという事実、そしてそれを生んだのが高知であるということを発信し、その結果植物に興味をもってもらい、牧野富太郎のエッセンスを当園で感じてもらう。いわば、「情報」を「体感」へと繋げていければ、と考えています。

なので、私たちとしてはひたすら牧野富太郎という人の偉業と人間性を発信していき、今までの高知=坂本龍馬が、高知=牧野富太郎というように瞬時にイコールで結びつく、そんなところを目指しています。

ブンタン
園内に植えられていた高知の特産品「ブンタン」。マーマレードにすると絶品! 高知は果物も豊富なのだ。

NHKの連続テレビ小説「らんまん」について

ドラマ化を推進する会が結成され、署名活動が行われた経緯もあります

GS:NHKの連続テレビ小説「らんまん」について、地元の方、そして植物園の皆さまはどんな風に受け止めていらっしゃるのでしょうか?

橋本:じつは以前から、ぜひドラマの題材に、というリクエストは県内の複数の箇所から出ていました。また、それを推進する会が結成され、署名活動が行われた経緯もあります。
署名活動が直接的にNHK側の選考判断材料になったかは分かりかねますが、県民を挙げて牧野博士の周知を願っていたわけですから、これはあくまでも私の想像ですが、そういった活動が少なからず選考に影響を与えた部分もあるのかな、とは思います。

GS:橋本さんご自身は、テレビ化の決定を聞いたとき、どう思いました?

牧野植物園広報課橋本

橋本:それは嬉しかったですよ! ここ(牧野植物園)に携わっている全ての人が、牧野博士のことを愛し、敬意を払っているので、博士の偉業と魅力が世間に、しかも全国ネットで周知されることを名誉に感じています。

GS:実際に署名活動に携わった方たちにとっては、まさに思いが報われた瞬間だったのですから、これはもうシャンパンファイトでもしたい気分だったでしょうね。こうして、ドラマの題材になったことによって、牧野植物園はどう変化すると思いますか?

橋本:そうですね、まぁ忙しくはなるでしょうね(笑)。 

でも先ほども言ったように、それがきっかけで牧野富太郎に興味を持ち、植物に興味を持ってもらうことは、私たちにとっては嬉しい相乗効果です。お客さまに今後どのようなアプローチで植物に興味を持ち続けていただくのかを考えながら、牧野植物園もコンテンツをブラッシュアップしていかなければなりません。
このたび、正面入り口と南門の間に植物研究交流センターという建物を新たにオープンしました。

そこでは、さまざまなワークショップやイベントを行っています。また、リニューアルしたレストランやミュージアムショップもお楽しみいただけるのではないかと思います。

牧野博士は“植物は楽しいものだ”ということを世界中の人に知らせたかったし、実際に知らせたわけですから、変化するというよりは、変わらずにその思いを継承していきたいですね。

植物研究交流センター
建設中(2022年12月当時)の植物研究交流センター。

牧野植物園のこれから

牧野植物園を通じて、植物に関する正しい情報を発信していくことが私たちの使命

GS:Webマガジン「ガーデンストーリー」の読者は園芸を愛好する人たちで、さまざまな形で園芸を楽しんでいます。読者の皆さまに、牧野富太郎博士のどんな部分を知ってほしいですか? また、牧野植物園のこれからの取り組みなどを教えてください。

橋本:博士の行っていた植物研究は、基本的に人の手が加わっていない自然そのものの植物が対象であったため、人の手が加えられる園芸文化と必ずしも合致する部分ばかりではないのですが、ベースにある植物愛というところでは大きく共通していると思います。

ただ牧野博士の場合は(想いが)突き抜けてしまっていたために、研究者として偉大な功績を遺すことができたのですが、その突き抜けていた部分を、連続テレビ小説や当園を通じて、感じて、そしてファンになっていただければ嬉しいですね。
なにしろ牧野富太郎は生前、自身のことを「草木の(妖)精」と言ってはばからなかったそうですから。

GS:植物への興味の有無にかかわらず、牧野富太郎という人の生き様に対して、連続テレビ小説を通じて興味を持つ方は多いと思います。

橋本:牧野博士の時代と違い、現代は情報が氾濫しているため、一つの分野を追求するのって難しいと思うんです。それがいばらの道になったら、楽な道も簡単に探せるわけですから。だからある意味、博士みたいなブレない生き方に憧れを覚える視聴者の方も多いのではないでしょうか。

そうして興味を持っていただいた方に、植物の種を本来あるべき姿で保存していくということの大切さ、そして高知県の自然の豊かさを、私たちも牧野博士のそれにならい、ブレずに積極的に発信していかなければなりません。発信する上で、この牧野植物園は重要な拠点となっているので、今後ますますその価値を高めていきたいと思います。

近年は植物の情報をネットで簡単に検索できますが、誤った情報も非常に多く見受けられます。
私たちは、この牧野植物園を通じて、植物に関する正しい情報を発信していくことを使命としています。

GS:粛々と、牧野博士の偉業を紡いでいくと。

橋本:そうですね、そんなところです。すいません、答えになっているかな(笑)。

GS:いや、情報の信頼性を追求するのは、私たち園芸メディアにとってもそれは使命であるので、正しい情報を元に植物愛好者を増やしていくという形で、牧野博士を見習い、その想いを紡いでいけたら嬉しいです。
今回は、いろいろお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
南園に牧野博士の立派な銅像がありましたが、博士にくれぐれもよろしくお伝えください。

橋本:伝えておきます(笑)。

牧野富太郎博士像
南園にある牧野富太郎博士像

取材後記

35年ぶりの高知。35年も経つと、初めて来た土地のような感覚でしたが、以前のことで鮮明に覚えているのは、高知市民の親しみやすさ。
すごくソウルフルで、今回の取材でお世話になった広報の橋本さんも、そんな方でした。

好青年で、時にクールに、またある時は熱っぽく語る、植物愛に溢れる橋本さんですが、牧野富太郎という人物をリスペクトしまくっているその姿を見ていて、この方は牧野富太郎と同時代に生を受けていたら、きっと牧野博士に可愛がられたのだろうな、と思いながら、お話を伺っていました。

ちなみに、この記事を作っている今(6月)、予見したとおり、連続テレビ小説効果で園内はだいぶ混み合い、忙しいらしいです。
忙しいけれど、ホスピタリティー溢れる橋本さんのことだから、きっと手を抜かないのだろうな…。

話に聞く牧野博士も、それはホスピタリティー溢れる方だったそうです。今回は、そんな土佐っ子の心意気を肌で感じる取材となりました。

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