香水はすべて、花の香りと植物の香りでつくられ、合成香料がそれに輝かしさやつややかさを添えるという構成になっている。
その構成を考えるのが調香師。彼らは香りで美しい音楽を作曲する芸術家だ。
そして、一つの香水が完成するまでにはさまざまな物語があり、市場に出た香水は、また幾つもの物語を紡ぎ出す。さあ、そんな香りの物語の世界への旅に出てみよう。

Print Friendly, PDF & Email

香りが心の傷を癒してくれる

香料の原料となるジャスミン。

1920年夏─

調香師のエルネスト・ボーは心に大きな傷を抱えていた。

抑えようとしても抑えることのできない悲哀と苦痛。それを忘れるために、エルネストは南仏カンヌ郊外のラ・ボッカ地区にある調香工房で、ひたすら新しい香水づくりに励んでいた。

バラやジャスミンやラベンダーのエッセンシャルオイル(花精油)の甘い香り。調香の世界では新素材である合成香料のフレッシュな香り。それらの香りだけが、血を流し、悲鳴をあげているエルネストの心を癒してくれた。

不思議なことに、調香のアイデアは次から次へと湧いた。まるで突然の不幸とそれがもたらした悲しみが、背中を押してくれているようだった。エルネストはきわめて規則正しい修行僧のような生活を送りながら調香に没頭。香水の試作品の数を増やしていった。

やがて、その中の一つがパリで発売され、大ヒット。世界の香水市場でも大きな成功をおさめ、エルネストは20世紀最高の「香りの魔術師」として、香水の歴史にその名を刻むことになる。

エルネストを襲った悲劇

エルネスト・ボーは1881年、ロマノフ王朝下のモスクワで生まれた。中等教育を終えると、ロシア最大の化粧品会社ラレ社の石鹸製造部門で働き始め、一時、兵役に就いて職場を離れたが2年後に復職。香水製造部門に配属され、調香師になるための修業を始めた。

エルネストは1907年、26歳のときに最初の香水を創作したとされている。だが、残念ながらその名称も香調も今日には伝わっていない。

1912年、ロシアはナポレオン率いるフランスの大軍を撃破したボロジノの戦いから100周年を迎え、戦勝を記念する盛大な祝賀行事を開催した。それに合わせてエルネストが創作した香水『ブーケ・ド・ナポレオン』(ナポレオンの花束)は好評を博し、ラレ社に多大な利益をもたらした。

まもなく第1次世界大戦が始まると、エルネストは父親の祖国であるフランスの陸軍に入隊。情報将校、捕虜尋問官として働いていたが、そんなさなかロシア革命が勃発。ラレ社が混乱を嫌って事業の拠点を南仏のカンヌに移したため、エルネストも大戦終結後、カンヌへと移り住むことになった。

悲劇が彼を襲ったのはこのときだった。

エルネストはモスクワでイライーデ・ド・シェーンネクという女性と結婚し、一児をもうけていたが、イライーデはフィンランド経由で夫のいるフランスへと向かう旅の途上で、ある男性と激しい恋に落ちた。そして結局、エルネストのもとから永久に去ってしまったのである。

シャネルの愛人

パリ、ヴァンドーム広場18番地のブティック。

断ち切れない妻イライーデへの想いと、こみあげる寂寥感。それに耐えながら調香に取り組んでいたある日、ロシア時代の知己であるドミトリー・パブロビッチ大公から連絡があった。「未発表の香水を探している女性がいる。その女性にぜひ会ってほしい」というのだった。

ドミトリー・パブロビッチ大公は、ロシア皇帝ニコライ2世の従兄弟という高貴な血筋だったが、ロマノフ王朝末期の宮廷で異様な権勢をふるった怪僧ラスプーチンの暗殺事件に加担。第1次世界大戦の激戦地へと追放された後、テヘラン、ムンバイ、英国を経てフランスに亡命。持ち前の美貌が幸いして、パリのファッション界の寵児ガブリエル・シャネルの愛人となり、今はパリ郊外のシャネルの別荘で暮らし、彼女から経済的な援助をうけている身だった。

大公がエルネストに「ぜひ会ってほしい」といってきた女性。それはつまり、シャネルのことだった。

伝説の香水の誕生

夏も終わりに近いとある宵、3人はカンヌの瀟洒なレストランで会食をした。食事が終わり、洋梨とイチジクとメロンの3種類のソルベからなるデザートも終わって、コーヒーの時間になったとき、エルネストが美しい木製のケースから香水のボトルを取り出し、テーブルの上に置いた。1番から5番までの第1のシリーズと、20番から24番までの第2のシリーズの計10本だった。

ほっそりとした身体に自分でデザインした夏服をまとったシャネルは、ボトルのキャップを取って香水の香りをひとつひとつ確かめていった。短い吐息が、時折、彼女の赤い唇から洩れた。その様子を、確かに美男ではあるが、どこか崩れた感じのするパブロビッチ大公が恍惚とした表情で眺めていた。

ひと通り香りを確かめ終えると、シャネルが口を開いた。「これよ。これが私の香りだわ」

彼女が指さしたのは、第1のシリーズの「5番」とナンバリングされたボトルだった。

なぜそれを選んだのかとエルネストが聞くと、シャネルは答えた。「私は毎年、5月の5日に新しいコレクションを発表するの。5という数字は私に幸運を運んでくれそうな気がするのよ。だから、香水もこれ。このニュメロ・サンク(5番)」

その年の暮れ、パリでエルネストの香水がシャネルお気に入りの顧客たちにクリスマスのプレゼントとして配られた。

すると、たちまちセンセーショナルな反響が巻き起こった。「こんな香りの香水は初めて!」「あの香水、もっとないの?」

顧客たちの熱い反応に心を動かされたシャネルは、翌1921年、パリのカンボン通りにある自分のブティックで、エルネストの香水を売り出すことにした。

香水史上に燦然と輝く名香『シャネル5番』は、こうして世に出た。

名香の香りの秘密

『シャネル5番』は発売から100年近く経った現在もなお売れ続けているが、その香りは花や植物の香りを抽出した天然香料と合成香料約80種で構成されている。

そして、その構成の大きな特徴は、天然香料の中では最も高価な南仏産のジャスミンオイルが惜しげもなく使われていることと、エルネストが調香を行った頃はまだ開発されたばかりだった合成香料「アルデヒド」が巧みに、しかも大量に配合されていることだ。

この「アルデヒド」について、エルネストは後にこう語っている。「私は北極圏で軍務に服していたことがありますが、白夜の季節になると、北極圏の河や湖はさわやかな香りを放ちます。私はその香りの記憶をずっと大切にしていたのです」。

冷たく凍てついた北極圏の大気の中に、そこはかとなく漂う香り。それが連想させるのは、美しく、奔放ではあるけれど、どこか氷のように冷たい女性だ。不倫の恋に走り、失踪したエルネストの妻イライーデも、もしかしたらそんな女性だったのかもしれない。

エルネストは、その後もシャネル・ブランドのために香水をつくり続け、1961年、パリのアパルトマンで2人目の妻イヴォンヌと娘マドレーヌに看取られながら、香りの魔術師としての生涯を終えた。80歳だった。

Credit


文/岡崎英生(文筆家・園芸家)

Photo/2) songsak 3) AjayTvm 4) Shutterstock.com/Shutterstock.com 他3&garden

Print Friendly, PDF & Email