17〜19世紀にかけてフランス激動の時代におきた事件や人物にちなんだバラは数々あります。ここでは、ナポレオンとその周辺の個性豊かな人物にちなんで命名された、今も愛されるバラたちを、ローズアドバイザーの田中敏夫さんに解説していただきます。今井秀治カメラマンによる美しい写真とともにお楽しみください。

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フランス激動の時代にちなむ名を持つ7つのバラ

17世紀から19世紀にかけて、フランスは絶対王政の隆盛を迎えたものの、やがて市民の窮乏が高じて革命の時代へと突入してゆくという激動の時代でした。

隆盛を誇った王侯や貴族たちは革命の嵐にあって没落し、多くは亡命しましたが断頭台の露と消えていった人たちもありました。また、革命軍の英雄としてさっそうと登場したナポレオン、その傘下にあった将軍たち、ナポレオンに関わった女性たちなど歴史をいろどる個性豊かな人物たちが数多く脚光を浴びた時代でもありました。

こうした時代を彩った事件や人物にちなんだバラがあります。今回は絶対王政から革命の時代とそれにちなんだバラのお話です。

カーディナル・ド・リシュリュー(Cardinal de Richelieu)

 ‘カーディナル・ド・リシュリュー
‘カーディナル・ド・リシュリュー’ Photo/今井秀治

深紅あるいは深い紫となる中輪花、花芯は白を混ぜたかのように明るい色合いとなるガリカです。

忘れられた育種家、ルイ・パルメンティエ』で紹介したベルギーの育種家、ルイ・パルメンティエール(Louis-Joseph-Ghilain Parmentier)により育種されました。正確な育種年は不明です。パルメンティエが亡くなった1847年以前と表記されることが多いです。

17世紀、フランス王、ルイ13世の治世下で宰相(1624-1642)として辣腕をふるったリシュリュー枢機卿(1585-1642)にちなんで命名されました。この品種についてはパルメンティエ自身、あまり重要視しておらず、単に「ヴァン・シアン(Van Sian:”青酸色から”)」と記載していたことも以前説明しました。パルメンティエからこの品種を譲り受けたラッフェイによって改名されたものです。

ルイ13世の宰相として権謀術策を駆使して多くの政敵を作ったこと、枢機卿として常に紅色の法衣をまとっていたため「赤い公爵」と綽名されたこと、アレキサンドロ・デュマ作の歴史小説『三銃士』に悪役として登場することなど、以前の記事で詳しく解説しました。

リシュリュー枢機卿は1642年に死去、後を追うようにルイ13世も崩御します。13世の崩御後、ルイ14世が王位に就きました。わずか5歳。そのため、13世の王妃、14世の母であるアンヌ・ドートリッシュ(Anne d’Autriche)が摂政となり、マザラン(Julesn Mazrin)が宰相となりました。

マザランが死去すると、ルイ14世は宰相を置かず、親政を開始します。特権商人を重用し植民地からの搾取により巨万の富を得(重商主義)、王位は神より授かったものという王権神授説を信奉するなどして富と権力の独占を計り、太陽王と呼ばれて繁栄を謳歌しました。「朕は国家なり」と宣言したことはあまりにも有名です。

ルイ14世
ルイ14世/Louis XIV of France – Musée Antoine-Lécuyer [Public Domain via. Wikipedia Commons]

ルイ14世(Louis XIV)

‘ルイ14世’
‘ルイ14世’ Photo/田中敏夫

フランスのギヨ息子(Jean-Baptiste Andre Guillot-fils)により1859年に育種・公表されました。

鮮やかな赤花HP(ハイブリッド・パーペチュアル)である、‘ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)’の実生から育種されたと記録されています。

紫の色素を詰め込んだような暗く深い赤、クリムゾンと呼ぶにふさわしい花色です。

70〜90㎝高さの比較的小さなブッシュとなります。HPの実生から生じたとされるものの、花形、返り咲き性、樹形などの特徴はHPよりもチャイナの要素が強く、チャイナへクラス分けされています。

1715年、ルイ14世が崩御し、孫にあたるルイ15世が王位に就きました。祖父王の推進した重商主義を継承し、ポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争に参戦して領土の拡大に努めましたが、戦費がかさんだことなどにより財政は急速に逼迫してゆきました。また、ポンパドール夫人やデュ・バル夫人を寵愛し、政治の実権をゆだねるなど政治への関心は薄く、表面は平穏に見えるものの、農村の疲弊は著しく進み、生活に窮した農民は耕地を捨て、貧民としてパリなどの大都市に集中しつつありました。

ルイ15世
ルイ15世/Louis XV of France -Maurice Quentin de La Tour [Public Domain via. Wikipedia Commons]
1774年、ルイ15世が天然痘により崩御。孫で王太子であったルイ・オーギュストがルイ16世として王位に就きました。

実はこの就位より4年前の1770年、オーストリア皇帝マリー・テレジアの娘、マリー・アントワネット(Marie Antoinette)が王太子時代のルイのもとへ嫁いでいます。ルイ16歳、マリー14歳のときでした。

この婚姻は、オーストリア、ハプスブルグ家の女帝マリー・テレジアが長年画策し、ようやく実現させたものです。フランス、ブルボン家と縁戚関係を築き、ハプスブルグ家の安泰をはかるという戦略的なものでした。

ルイ16世
ルイ16世/Louis XVI of France -Joseph-Siffred Duplessis [Public Domain via. Wikipedia Commons]
ルイ16世は、暗愚で優柔不断な国王として描かれることが多いのですが、リモージュの州知事として疲弊した地域経済を再建したことにより、高名をはせていたジャック・テュルゴー(Jacques Tugot)を財務総監に任命して逼迫した財政を再建に当たらせるなど、決して無策のまま事態を放置していたわけではありません。

しかし、テュルゴーによるギルドの解体、農業者の賦役の廃止などの施策は貴族や大土地所有者の強い反感を買い、また若い王妃アントワネットの浪費にも苦言を呈するなどしたことにより、次第に信望を失いついに失脚してしまいます。

テュルゴーへの鋭い批判により頭角を現し、後を受けて財務長官となったのがスイスの金融業者であり、平民出身であったことから、パリ市民に人気のあったネッケル(Jacques Necke)でしたが、彼が実際に取った経済政策も、基本的にはテュルゴーと同じものでした。

進展しない財政再建の業を煮やしたネッケルは、三部会の開催を王に進言します。三部会とは、僧侶(第一階級)、貴族(第二)、平民(第三)の代表が集まる会です。ルイ14世が絶対王政を確立し、すべての裁断は王が行うという政治体制が長く続いたため、三部会は170年もの間、招集されていませんでした。

開催された三部会では、免税と年金特権のある僧侶・貴族(第一、第二)と平民(第三階級)とが税制の変革を巡って鋭く対立し、評決に至ることができませんでした。

テュルゴーと同じように王妃マリー・アントワネットの浪費に苦言を呈していたネッケルでしたが、1789年7月11日に罷免されてしまいます。これを知って怒った市民は、7月14日、バスチーユ牢獄を襲撃します。フランス革命の勃発です。

フランス革命
バスチーユ牢獄/La prise de la Bastille-Jean-Pierre Houël [Public Domain via. Wikpedia Commons]
アントワネットは、よくいえば純朴、悪くいえば鈍重なルイ16世との結婚生活は決して幸福なものではなく、夜な夜な住まいにしていたベルサイユ宮を密かに抜け出してパリへ出かけ、仮面舞踏会、オペラ、賭博などの遊行を繰り返していたといわれています。

すでに財政破綻の状態にあった国家財政を省みることがなかったこと、また、宮廷に出入りする人への好悪が激しかったばかりではなく、それを隠そうともしませんでした。こうした天真爛漫さが災いして貴族の間に反感が広がり、やがてそれは巷の市民の間にも浸透して、「高慢ちきなオーストリア女」と蔑まれ、憎悪を一身に浴びるようになってゆきました。

マリー・アントワネット
若かりしマリー・アントワネット/Marie Antoinette -Martin van Meytens [Public Domain via. Wikipedia Commons]
1789年8月14日、市民によるバスチーユ牢獄襲撃から1カ月後、パンを求める夫人たちが先頭に立ってベルサイユへ行進し、王一家を強制的にパリのテュレリー宮へ連れ戻りました。王一家はその後ベルサイユ宮へ戻ることはありませんでした。

1791年、王一家は国外亡命を試みたものも、フランス東部のヴェレンヌで阻止されてしまいます。この企てにより、穏やかな性格からアントワネットほど嫌われていなかったルイ16世も市民の憎悪を掻き立てることとなりました。この逃亡劇の際に一家を支えたのがフェルゼン伯爵です。伯爵は池田理代子さんのコミック『ベルサイユのばら』の中でアントワネットの恋人として登場しますが、このとき、身の危険を省みず、王ルイと王妃アントワネットの救出に奔走したことはまぎれもない事実です。

1792年8月、王権は停止され王一家はティレリー宮からタンプル塔へ移され幽閉されてしまいます。

1793年1月、ルイ16世は処刑され、続いて10月にはアントワネットも多くの市民の目の前で処刑されました。革命勃発後、生命をもおびやかされる数々の事件を経たことによるのか、アントワネットの軽薄な性格は次第に王家に生まれたという誇りにみちた毅然たるものへと変化していました。処刑の直前まで尊厳を失うことなく神々しさに満ちていたと伝えられています。

マリー・アントワネット(Marie Antoinette 2003)

 ‘マリー・アントワネット’
‘マリー・アントワネット’ Photo/今井秀治

9〜11㎝径、丸弁咲き、時にカップ型となる花形。花色はクリーミィ・ホワイト、粉を散らしたようにわずかにアプリコットに色づくこともあります。丸みを帯びた大きめの照葉、小さめのブッシュ。

2003年、ドイツのタンタウ社より、ノスタルギッシェ・ローゼン(ノスタルジー・ローズ)・シリーズのひとつとして、育種・公表された新しい品種です。

この悲劇の王妃の名前を冠した品種は、これ以前にもあって、1825年、ヴィベールが作出した、深いピンクの花色の同名の品種があり、また、米国のアームストロングも1968年に、ピンクの大輪花を咲かせる同名の品種を公表しています。残念ながら、現在、両品種とも市場では見ることは難しくなってしまいました。

革命勃発の起点となったバスチーユ牢獄襲撃にあたって、市民はまず廃兵院の武器庫を襲ったことは、上記で触れました。この武器庫の管理責任者であったのがソンブレイユ侯爵です。侯爵はこの襲撃の際には生命をおびやかされることはありませんでした。しかし、後に捕らえられギロチンに架せられることになってしまいました。

刑執行の直前、令嬢であったマリー=モリーユ・ヴィロ・ド・ソンブレイユ(Marie-Maurille Virot de Sombreuil)は父侯爵が王党派に組しない人物であることを訴え、刑の執行停止を懇願しました。

革命派が出した釈放の条件は実におぞましいもので、刑死した王党派の血コップ一杯を飲み干したとき、その言を信じようというものでした。マリーはコップに注がれた血を見事に果たして父の窮地を救いました。

ソンブレイユ
革命派の市民に囲まれるソンブレイユ/Pierre Puvis de Chavannes [Public Domain via. Wikipedia Commons]
マリー=モリーユにちなむ美しいティーローズがあります。

ソンブレイユ(Sombreuil)

 ‘ソンブレイユ’
‘ソンブレイユ’ Photo/今井秀治

9〜11㎝径、百弁を超えるのではと思われる、クォーター咲きとなる花形。クリーミィ・ホワイトの花色ですが、時に淡いピンクを帯びることがあります。丸みを帯びた大きな葉、細めですが比較的硬めの枝ぶり、250〜350 cm高さとなるクライマーです。

1959年、アメリカ、オハイオ州のバラ苗業者ウィヤント(Melvin E. Wyant)が、‘コロニアル・ホワイト(Colonial White)’という名前で公表しました。ウィヤントは、流通業者ですので育成者ではありません。育成者は不明のままです。

実はこの品種にはもう一つのエピソードがあります。本物、偽物論議の対象となったことがありました。

1850年、フランスのロベールは、‘マドマーゼル・ド・ソンブレイユ’という白花のクライミング・ティーを公表していました。ウィヤントによる‘コロニアル・ホワイト’は、ロベールの‘マドマーゼル・ド・ソンブレイユ’と著しく類似していたため、流通の過程で混同されてしまい、‘ソンブレイユ’という品種名で販売されている品種がロベール育種ものものなのか、ウィヤントが提供しているものなのか、わからなくなってしまいました。

2006年の秋、アメリカバラ協会(ARS;American Rose Society)は、現在、主にアメリカで流通している‘ソンブレイユ’は、1850年にフランスで作出された‘マドマーゼル・ド・ソンブレイユ’とは異なる品種であると宣言しました。そして、今後この品種は‘ソンブレイユ/Sombreuil’(ラージ・フラワード・クライマー、1959年)という品種名に統一し、ロベールが育種した旧来の品種は、‘マドマーゼル・ド・ソンブレイユ/Melle. De Sombreuil’(クライミング・ティー、1850年、ロベール作出)という別品種として区別すると公示しました。

現在市場に流通している「ソンブレイユ」のほとんどは1959年に育種されたものです。本来の‘ソンブレイユ(マドマーゼル・ド・ソンブレイユ)’は、パリ郊外のロズリー・ド・レイ(Roserie de l’Hay)他で見ることができるとのことです。

マリー・テレーズ・ルイーズ(Marie Therese Louise:1749-1792)は、マリー・アントワネットのもとで女官長を勤めるなど、王妃の寵愛を受けていました。誠実な性格で、フランス革命の際いったん国外へ脱出したものの、ティレリー宮へ幽閉されていたアントワネットのもとへ戻り、その後王妃とともにタンプル塔へ移動するなど行動をともにしました。

1792年、革命の正当性を認めるよう革命派市民たちから強要されるもマリー・テレーズはこれを拒否。そのため民衆の憎悪を買ってしまいました。彼女は暴徒によって殺害され、遺体は陵辱され、首はマリー・アントワ・ネットへの憎しみを象徴するかのように、アントワネットが幽閉されていたタンプル塔へ持ち込まれました。最後まで忠誠を尽くした友の死を知って、アントワネットは気絶したと伝えられています。社会の潮流に押し流された、悲劇的な人物です。

プリンセス・ド・ランバーユ
プリンセス・ド・ランバーユ/“Mme. la princesse de Lamballe”by Antoine-François Callet [Public Domain via. Wikipedia Commons]
アルバ~妖しい白バラ』や『ブルボンローズ~謎めいたバラ』でも触れましたが、マリー・テレーズ・ルイーズにちなんだバラがあります。

一般的には‘ブルボン・クィーン(Bourbon Queen)’と呼ばれるこの品種は、‘スヴニール・デ・ラ・プリンセス・ド・ランバール’(Souv. De la Princesse de Lamballe:プリンセス・ランバーユの思い出)という別名でも呼ばれていいます。

この命名には、激情に駆られて犯してしまった蛮行への深い悲しみと反省があるのかもしれません。

スヴニール・デ・ラ・プリンセス・ド・ランバール(Souv. De la Princesse de Lamballe)/ブルボン・クィーン(Bourbon Queen)

 ‘スヴニール・デ・ラ・プリンセス・ド・ランバール
‘スヴニール・デ・ラ・プリンセス・ド・ランバール/ブルボン・クィーン’ Photo/今井秀治

1824年、フランス、オルレアンでバラ育種農場を運営していたムジェ(Mauget)により育種・公表されました。交配親は不明です。ブルボンの初期の品種で一季咲きのランブラーです。詳細は上記記事をご参照ください。

ルイ16世とアントワネットとの間に一男一女がありました。長子はマリー・テレーズ(同じような名前でややこしいですネ)、次子がルイ(のちルイ17世と呼ばれる)でした。

フランス革命勃発後、ティレリー宮に幽閉されていたルイ16世一家は、1791年、オーストリアへの亡命を試みたものの、ヴェレンヌで阻止されティレリー宮へ戻されましたことはお話ししました。(“ヴェレンヌ事件”)。

このとき12歳であったマリー・テレーズは、父母と行動をともにしていました。パリへ戻された後は、父母とともに初めティレリュー宮へ、後にタンブル塔へ幽閉されてしまいます。両親の刑死の後も幽閉されたままでしたが、2年後に国外追放となりました。別部屋に監禁されていたため追放の時点まで両親の刑死や弟ルイ(17世)の病死の事実を知りませんでした。

マリー・テレーズ
1796年、亡命時代のマリー・テレーズ/Marie Thérèse-Heinrich Füger [Public Domain via. Wikipedia Commons]
マリー・テレーズは1799年、従兄弟であるルイ・アントワーヌ(アングレーム公爵)(Louis Antoine, duc d’Angoulême)と結婚しました。 そのため、デュシェス・ダングレーム(アングレーム公爵夫人)と呼ばれることとなりました。

義父となった叔父アルトワ伯爵(Comte d’Artois)はルイ16世の弟です。革命勃発後亡命していましたがナポレオンが失脚した1814年に帰国。王政復古が果たされるとシャルル10世として王位につくことになります。しかし、革命勃発の1794年から帰国する1814年までの18年に及ぶ長い年月、王権の復活をもくろみつつ、ロシア、ポーランドなどヨーロッパ各国で亡命生活を送りました。革命政府や共和政権に対し、常に声高に批判を繰り返したため、幽閉され生命を脅かされていたルイ16世、マリー・アントワネットや家族への配慮に欠けていたという批判もあります。

夫とともにアルトワ伯と行動をともにしたマリー・テレーズは義父、夫とともに帰国を果たしました。しかし、帰国後は、ボナパルティストと呼ばれたナポレオン支持者達へのテロを扇動するという過激な行動に出ることとなります。両親はギロチンに架され、また、自身も多感な十代を独房で過ごさざるを得なかったことへの癒やしがたい恨みが、その背景にあるものと思われます。

1830年、七月革命により王制が廃止されると再び亡命生活を送ることになり、以後は帰国することなく生涯を終えました。

マリー・テレーズ=デュセス・ダングレームの名を冠したバラがあります。

デュセス・ダングレーム(Duchesse d’Angouleme)

 ‘デュセス・ダングレーム’
‘デュセス・ダングレーム’ Photo/今井秀治

7〜9cm径、薄くデリケートな花弁を無理やり詰め込んだような丸弁咲きとなる花形です。

淡いピンクの花色、透けて見えるほどですので、‘ザ・ワックス・ローズ(The Wax Rose)’と呼ばれることもあります。また、ガリカにクラス分けされたり、ケンティフォリアとされることもある‘アガータ・インカルナータ’(Agathe Incarnata:バラ色のアガータ)は、この‘デュセス・ダングレーム’と同じ品種だという説(グラハム・トーマス)とも、違うものだという説(ディカーソン、ジョワイオ)があって結論が出ていないようです。

花形、花色に似つかわしい、繊細な枝ぶりです。枝は花の重さを支えきれず、うつむき加減に開花します。もどかしくもありますが、可憐さの極みにあるようにも感じます。

1821年、フランスの名育種家、 ヴィベール(Jean-Pierr Vibert)が育種・公表しました。

1791年、フランス革命の自国への波及を恐れた、オーストリア、プロイセンはフランスへ侵攻を開始しました。いわゆる対仏反革命軍です。翌年、これに対抗して、フランス革命議会はオーストリアへ宣戦布告し、フランス革命戦争(1792-1802)が勃発しました。

1792年、プロイセンは革命阻止のためフランス国内へ侵攻してきました。フランス軍はフランス北部ヴァルダンに駐留していましたが、司令官であったガルヴォー将軍(General Galbaud)はもともと王党派であり、プロイセンの侵攻に敵対する気持ちは強くありませんでした。指揮をまかされたボールペール中佐(1740-1792)は抗戦する意図はあったものの、プロイセン軍の包囲に窮してしまい自害。軍は降伏してしまいました。

しかし、その後、フランス軍には義勇兵が加わり、プロイセン軍をヴェルダン近くのヴァルミーで迎え撃ちました。戦闘は砲撃戦を主体とした小競り合いと言ってよい程度の小規模なものでしたが、プロイセン軍は兵站の不足などもあり退却し、フランス義勇軍の勝利となりました。この勝利は小さな勝利でしたが、革命派にとっては王党派を打ち破ったという点でメルクマールになり、勢いを得た革命運動は嵐となってフランス中を席捲することになりました。

ヴェルダンにあるボールペール像
ヴェルダンにあるボールペール像/ Nicolas-Joseph Beaurepaire sur le pont de Verdun à Angers [CC BY-SA 4.0 via. Wikipedia Commons]
ボールペール中佐にちなんだバラがあります。

コマンダン・ボールペール(Commandant Beaurepaire)

‘コマンダン・ボールペール’
‘コマンダン・ボールペール’ Photo/今井秀治

9〜11cm径、オープン・カップ形。クリムゾンとホワイトの対比が鮮やかな、ストライプとなりますが、どちらかといえばクリムゾンが勝って、全体としては赤が前面へ出てくるといった印象を受けます。

つや消し気味の、幅広で大きな、明るい色合いの小葉、細いけれど硬めの枝ぶり。そのため花はしっかりと上向きに咲くことが多くなります。120〜180cm高さ、比較的小ぶりなブッシュ。ブルボンにクラス分けされていますが、返り咲きはあまり期待できません。

フランスのモンロー・エ・ロベール(Monreau et Robert)により1864年に育種され、1874年に一季咲き、ガリカの枝変わりによるストライプ品種として公表されました(公表当時はパナシェ・ダングレ/Panachée d’Angersという新たな品種名だった)。

しかし、5年後の1879年に弱いながらも返り咲きする性質のものが現れ、それが今日ブルボン・クラスのストライプ種の一つとして流通しています。ストライプの元となった品種は不明です。おそらくすでに失われてしまった品種なのでしょう。

Credit

文/田中敏夫
グリーン・ショップ・音ノ葉、ローズアドバイザー。
28年間の企業勤務を経て、50歳でバラを主体とした庭づくりに役立ちたい思いから、2001年、バラ苗通販ショップ「グリーンバレー」を創業し、9年間運営。2010年春からは「グリーン・ショップ・音ノ葉」のローズアドバイザーとなり、バラ苗管理を行いながら、バラの楽しみ方や手入れ法、トラブル対策などを店頭でアドバイスする。

写真/田中敏夫、今井秀治

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