ケシの花は可憐で、はかなげで、実に美しい。
けれど、「阿片」という恐ろしい麻薬はケシの花からつくられる。その麻薬の名前を香水のネーミングにし、一大センセーションを巻き起こしたイヴ・サンローラン。天才的なファッションデザイナーの衝撃の試みとは──。

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帆船「北京号」の豪華なパーティー

1978年9月──。

ニューヨークのマンハッタンで、贅の限りを尽くした豪華なパーティーが開かれた。

会場となったのは、ハドソン河畔の波止場に停泊した帆船「北京号」。船内には仏像、提灯、日傘、ランの花などが飾られ、摘んだばかりの秋バラの花びらがふんだんにまき散らされていた。

会場には「阿片窟」も

招待されたのは、ハリウッドのセレブたちやメディア関係者。彼らにはさまざまな料理と酒がふるまわれ、東洋の舞踊や中国雑技団による曲芸が次々に披露された。

そして、船内の奥まったところには、カーペットを敷きつめて中国・清朝時代の「阿片窟」を模したコーナーもあり、そこにはたくさんの枕が並べられていた。

この風変わりなパーティーをプロデュースしたのは、パリのファッション界の寵児イヴ・サンローラン。

彼のブランドの新作香水『オピウム(阿片)』の米国発売を記念するイベントとして開かれたのが、いろいろと趣向をこらしたこの日のパーティーだった。

ファッション革命の騎手

イヴ・サンローランは1957年、21歳でディオールの主任デザイナーとなり、その後独立。常識を覆す革新的なデザインで社会に衝撃を与え、女性のライフスタイルや価値観を大きく変えたファッションデザイナーとして知られている。

当時、世界的に流行していたのはミニスカート。

膝上まで脚を露出し、女らしさやセクシーさをアピールするファッションだったが、イヴはそれを否定。本来は男性のものであるパンタロン(パンツ)を採り入れた既製服を相次いで売り出し、いずれも女性たちの爆発的な支持を集めた。

デザインにこめられたメッセージ

──ミニスカートをはいて、男性の視線を意識しつづける限り、女性は男性への従属的地位を脱することはできない。そういう生き方は、もうやめよう。女性は男性と対等な存在として、職場でも、人生においても、もっと誇り高く生きるべきだ。

イヴのデザインには、彼のそんなメッセージがこめられていた。

女性の正装といえばドレスだった時代。パリの高級レストランの中には、パンタロンをはいた女性の入店を断る店もあった。だが、パンタロンはやがてスカートに代わる女性の基本服となり、むしろパンツルックのほうが女性のファッションの主流となっていった。

黒人モデルを積極的に起用

ファッション界では、ショーに有色人種のモデルが出演することなど、およそ考えられないという時代が長く続いていた。

だが、イヴは英国出身の黒人モデル、ナオミ・キャンベルや日本人の川原亜矢子などを積極的に起用。ナオミが黒人女性として初めて『ヴォーグ』誌の表紙を飾ることができたのも、実はイヴが陰で動いたおかげだった。

『ヴォーグ』誌は当初、黒人女性を表紙に登場させることを拒絶していた。

「そういう差別的な姿勢を改めないのであれば、私の会社からの広告出稿を全面的に取り止める」

イヴはそう言って、『ヴォーグ』誌に圧力をかけたのだった。

弱者への眼差し

女性や黒人など、弱い立場の人々の味方だったイヴ──。

それは彼自身が、生まれながらの性に違和感を持つLGBT、バイセクシャルであり、差別される側の人間だったからだ。

実際、彼はアルジェリア戦争に従軍したとき、同僚の兵士たちのいじめをうけ、重度の神経衰弱で入院するという経験をしている。

新しい香水への思い

イヴが「東洋的で、官能的な香りの香水をつくりたい」と考えたのは、1970年の暮れ頃だった。

化粧品会社や広告代理店などからなるプロジェクトチームがつくられ、活動を始めたのは、その2年後の1972年。

まず、ボトルを日本の武士が持ち歩いていた印籠のような形にするというデザイン案がまとまり、香水名を『オピウム(阿片)』とすることも決まった。

そして香りについては、《香水の都》として名高い南仏グラースの調香師ジャン=ルイ・シュウザックに任せることになった。

プロジェクト崩壊の危機

だが、時が経つにつれて、オピウム、阿片という刺激的なネーミングに怖じ気をふるうプロジェクト関係者が続出。「あまりにもリスキーすぎる」「別の名前に変えたほうがいい」という声が高まっていった。

だが、イヴは自分が提案したオピウムというネーミングにこだわり続けた。プロジェクト関係者は、頑として妥協しようとしない彼への苛立ちと不満を募らせ、両者の関係は次第に険悪化。イヴは「これ以上、このプロジェクトを前に進めたくない。この香水にイヴ・サンローランの名前を使うことはできない」と断言するまでになった。

名香『オピウム』の誕生

そんな経緯はあったものの、香水『オピウム』は1977年秋、ついに完成。

この年、イヴが“中国風”をテーマに制作したコレクションの発表に合わせてフランスで発売され、次いでヨーロッパ各国で発売された。

予想をはるかに上回る大成功だった。

「狂ったように売れたのです」とプロジェクト関係者の一人はそう回顧しているが、人気は日を追うごとに過熱。製品を積んで出荷工場を出発したトラックが、途中で車ごと盗まれるという事件まで起き、発売から約1カ月後、『オピウム』は完全に在庫切れとなってしまった。

中国人の抗議デモ

米国ではその翌年の秋、ニューヨークのミッドタウンの百貨店「ブルーミングデールズ」で売り出された。

すると、思いがけない騒動が持ち上がった。オピウム、阿片というネーミングに米国在住の中国人たちが猛反発。「この香水は、われわれを侮辱するものだ」と叫ぶ抗議のデモ隊がニューヨークの五番街と六番街の間のストリートを占拠するという事態になったのだ。

「阿片戦争」の屈辱

確かに、オピウム、阿片は中国の人々の忌まわしい記憶と結びついている。

阿片はケシからつくられる麻薬で、中枢神経を麻痺させる。中国では清朝時代に、この麻薬を吸引する悪習が蔓延。政府はたびたび禁止令を出し、阿片を中国国内に持ち込んでいる英国商人を弾圧したが、ほとんど効果がなかった。

というのも、英国は従来、中国から茶、陶磁器、絹織物などを輸入していたが、自国には中国に輸出できるこれという産物がなかった。

そこで目をつけたのが阿片。英国は植民地のインドで生産されているこの麻薬を、中国に大量に輸出し、長年の貿易赤字の解消を図った。

そのため、阿片の吸引を禁止しようとしていた清朝との間に「阿片戦争」が勃発。清の軍隊は英国派遣軍に惨敗し、英国への多額の賠償金支払いと、香港の割譲を強いられる結果となった。

香りで表現したかったものとは?

イヴにはもちろん、中国の人々を侮辱する意図はなかった。

抗議デモはまもなく鎮静化し、香水『オピウム』は米国でもたちまち大ヒット商品となった。イヴはあるインタビューで、この香水について次のように述べている。

「ファッションのデザインで自分を表現してきたように、私は素晴らしい香りで自分の考えを表現したかったのです」

プロジェクトが途中で崩壊していれば、香水『オピウム』の誕生も、伝説的な名香として香水史にその名を残すこともなかったに違いない。

その香りはネーミングからは想像できないほど、やさしく、そして心地よい。

イヴが香りで表現したかったものとは、いったい何だったのか? 甘い香りのはるか彼方に、おそらくその答えはあるのだろう。

Credit

文/岡崎英生(文筆家、園芸家)

Photo/1&5) Alvesgaspar (CC BY-SA 3.0)/ 2)Lizavetta/Shutterstock.com/  3&6) Wesley Vieira Fonseca(CC BY-SA 3.0)/ 4) Andrea Raffin/Shutterstock.com/

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