ジョセフィン・カタパノ、そしてソフィア・グロスマン──。米国が生んだ2人の偉大な女性調香師は共にヨーロッパからの移民の娘。彼女たちを成功へと導いたのは、はかなく、甘い、花の香りだった。

イタリア移民の娘

2012年5月14日、偉大な女性調香師が93歳の天寿を全うして亡くなった。

ジョセフィン・カタパノ──。

ニューヨークのブルックリンにイタリア移民の子として生まれ、高校を卒業後、大手香料会社のインターナショナル・フレーバー・アンド・フレグランス社(IFF)に入社。1953年、35歳のときに化粧品メーカー、エスティ ローダーの依頼に応えて、香水『ユース・デュー』を創作。業績不振に苦しんでいたエスティ ローダーにとって、この香水は起死回生の大ヒット商品となった。

女性が喜ぶ一工夫

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1950年代の米国は、建国以来ともいわれる空前の繁栄を謳歌していた。とはいえ、もちろん国民の誰もが裕福というわけではなかった。

そんな中、香水『ユース・デュー』には移民の娘として育ったジョセフィンならではの工夫が加えられていて、バスオイルとしても使えるようになっていた。

そう、『ユース・デュー』は女性たちに、バスオイルを買うぐらいのお金で香水が買えるという、うれしい機会を提供したのだった。

フランスからのオファー

1960年代半ば、ジョセフィンはフランスの化粧品メーカーから新たな依頼をうけた。それはパリの高級婦人服ブランド、ギ・ラロッシュから発売される予定の香水で、ネーミングもボトルのデザインもすでに決定済みだった。

ところが、化粧品業界は極端な秘密主義。ジョセフィンにはわずかに、1948年にニナ・リッチから発売された香水『レール・デュ・タン』の現代版、「軽く、さわやかで、グリーン感のある花の香り」を希望している、ということが伝えられただけだった。

名香『フィジー』の誕生

ジョセフィンは長い時間をかけて調香に取り組み、やがてギ・ラロッシュ側の期待以上の香水を完成させた。

それは最初に香るトップノートにはベルガモットやレモンを、次に香る核心部のハートノートにはガリカ・ローズやジャスミンを、最後に香って官能的な感じをかもし出すベースノートにはオークモス、サンダルウッド(白檀)、ムスクなどを用いたもので、当初からの要求にあった「グリーン感のある花の香り」は合成香料によって表現されていた。

香水史上に名高い名香『フィジー』の誕生だった。

香水とブランドイメージ

ギ・ラロッシュは、かつてクリスチャン・ディオール社でピエール・カルダン、イヴ・サンローランとともに働き、「ディオールの三プリンス」と謳われた才人の一人。1957年に独立し、自分のメゾンを立ち上げたが、ディオールやシャネル、あるいはやはりディオールから独立して自身のメゾンを立ち上げ、パリ・ファッション界の寵児となったイヴ・サンローランなどと比較すると、やや格落ちの感は否めなかった。

だが、香水『フィジー』の成功で一挙に高級ブランドのイメージを確立。活発なビジネス展開を行うようになっていった。

南海の楽園への旅

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1966年に発売された『フィジー』は、その後の20年間で約800万本が売れた。

当時は、まだ今日ほど海外旅行が一般的ではなかった時代。『フィジー』というネーミングとそのロマンチックな香りは、南海の楽園への贅沢なヴァカンス旅行を想像させ、人々の夢と憧れをかき立てたのだった。

匂いへの天性の感覚

女性の調香師として揺るぎない地位を築いたジョセフィンは、周囲から「ジョー」という愛称で呼ばれ、多くの人に愛されていた。

そのジョセフィンに才能を見出され、米国で2人目の女性調香師となったのが、ソフィア・グロスマンだ。

ソフィアは1945年、その頃はまだソ連の一共和国だったベラルーシの生まれ。幼少期から匂いにきわめて敏感だったので、母親はマーケットに買い出しに行くときは必ず娘のソフィアを連れていくことにしていた。というのも、当時のベラルーシでは一般家庭はもちろん、食料品店にも冷凍や冷蔵の設備がなく、生鮮食品の鮮度にあまり信頼が置けなかったからだ。

で、母親は店先でソフィアに牛乳やチーズの匂いを嗅がせ、嫌な顔をしたり、首を横に振ったりしたら、絶対に買わないようにしていたのだった。

ジョセフィンとソフィアの出会い

1960年、一家はポーランドに移住。ソフィアは高校から大学へと進学し、医学と化学の学士号を取得した。

だが、ベラルーシと同様、ソ連の強い影響下にあるポーランドにはこれという働き口がなく、将来への希望もなかった。そこで一家は再び移民となって米国に渡り、ニューヨークに落ち着いた。

そして、ある日、21歳になったソフィアはIFFの調香師ジョセフィンと出会った。このときから彼女の人生が大きく開けていくことになる。

調香こそ「天職」

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ジョセフィンの工房に入れてもらい、調香という仕事を初めて見たソフィアは、瞬時にしてこれこそが自分の「天職」だと悟った。

そこでジョセフィンに勧められるまま、IFFが入社希望者に対して実施している嗅覚テストを受けてみると、見事、合格だった。だが、IFFからはその後、何の音沙汰もなかった。IFFには、共産圏からの移民の娘などを雇う気はなかったのだ。

修業を始める

ソフィアは昼間は働き、夜は医学の勉強を続けることにした。

そんな暮らしを始めておよそ1年が経ったとき、ジョセフィンがIFFの経営陣にかけ合い、ソフィアにチャンスを与えるよう説得してくれた。おかげでソフィアはIFFに入社し、ジョセフィンのもとで調香師になるための修業を始めることができた。

香りの世界のピカソ

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1983年、ソフィアは38歳のときにイヴ・サンローランに提供した香水『パリ』で高い評価をうけ、調香界の新星として注目されるようになった。

その後の彼女は驚くほど多産で、ブルガリ、カルバン・クライン、ケンゾー、コティ、エスティ ローダーなどに相次いで傑作香水を提供。斬新な調香法が話題となり、彼女を「香りの世界のピカソ」と評する人も現れた。

香りが導いてくれた成功

ソフィアはその後、IFFの副社長に就任。1994年には、ジョセフィンも過去に受賞した米国調香師協会の女性コスメティシアン賞を受賞。さらに99年には同じくジョセフィンも受賞した同協会の生涯業績賞の栄誉に輝いている。

持って生まれた香りに対する天性の鋭い感覚。それが共産圏からの移民の娘を輝かしい成功へと導いたのだった。

Credit

文/岡崎英生(文筆家、園芸家)